マカロニ・ウエスタンから広島焼きまで

マカロニ・ウエスタンはどういう経緯でできたのか、という問いから始まって、正しい比喩は実録任侠だと刺され、学園ドラマに広げ、金八すら解体側だったと二重螺旋が見えてくる。様式美→マンネリ→解体→リアル→再様式美化という螺旋が、ジャンルを問わず回っている。後半は命名の話。なぜ日本だけマカロニで、本家アメリカには食い物の名前がつかないのか。広島焼き問題、ハンバーガー・ウエスタン、SHOGUN、そして「マカロニ・ウエスタン」という呼称そのものの死語化まで。気づけばジャンルの生と死の話になっていた。わかるやつはそういないやろけど。


一.マカロニ・ウエスタンはどう生まれたか


ボク: マカロニ・ウエスタンってのはどういう経緯でできたのさ。そりゃ日本人も西遊記とか水滸伝とかやったけどそれと同じか?

Claude: 似ているようで、だいぶ違います。マカロニ・ウエスタン(イタリアではスパゲッティ・ウエスタン)は、1960年代にイタリアの映画人がアメリカの西部劇というジャンルを乗っ取った現象でした。

1950年代末、ハリウッドの西部劇は様式化しきってマンネリに陥っていた。一方イタリアにはチネチッタ撮影所を中心とした低予算映画の量産体制があり、西部っぽいスペインのアルメリア砂漠も近かった。最初は単なる便乗模倣だったのが、1964年にセルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』で一変します。レオーネは「正義のヒーローが悪を倒す」という道徳劇の枠組みを壊して、主人公も含め全員がエゴイストという残酷でニヒルな世界に作り替えた。

西遊記・水滸伝のドラマ化は基本的に原作の翻案・ローカライズで、ジャンルそのものを再定義したわけではありません。堺正章の『西遊記』を見て「西遊記というジャンルの意味が変わった」とは誰も思わない。マカロニは本家アメリカに逆輸入されてジャンルの文法まで書き換えてしまった。比喩を探すなら、黒澤『用心棒』→『荒野の用心棒』(無断リメイクで訴訟沙汰)→イーストウッドの逆輸入、という往復の循環のほうが近いですね。


二.正しい比喩は実録任侠


ボク: あまいな、その比喩なら実録任侠物をいわなw

Claude: ——そちらのほうが正確です。こちらを出すべきでした。

東映任侠映画→実録路線への転換が、ハリウッド西部劇→マカロニ・ウエスタンとまったく同じ構造になっている。高倉健・鶴田浩二の仁侠映画は「義理と人情に殉じる美しいヤクザ」という道徳劇で、西部劇の「正義のガンマン」と同じ様式美の世界でした。それがマンネリ化したところに、深作欣二が『仁義なき戦い』で全部壊した。義理人情は建前、裏切りと暴力がリアル、手持ちカメラとナレーションで突き放す。

レオーネが1964年、深作が1973年。時期も近い。しかも「本家を殺した」という結果まで同じで、マカロニ以降ハリウッドの古典西部劇は死に、実録以降の東映で義理人情の任侠は作れなくなった。異文化間の往復より、同一国内でジャンルの道徳性が解体される運動として、実録任侠のほうがはるかに対応がきれいです。


三.学園ドラマも同じ螺旋


ボク: さらにいえば様式美学園ドラマがリアルなそれに置き換わるw

Claude: 同じサイクルですね。金八先生的な「熱血教師が問題生徒を愛で更生させる」という道徳劇が様式美として確立して、それが野島伸司あたりで解体される。『高校教師』の禁断の関係、『人間失格』のいじめの残酷さ。「先生が来てくれたから救われました、なんて嘘だろ」という。

どのジャンルでも結局、様式美(道徳劇)→マンネリ化→「嘘だろそれ」という解体→リアル/ニヒリズム、という同じ運動が回る。西部劇、任侠、学園ドラマ、全部これです。で、リアル路線もいずれ様式化して次の解体を待つ。実録任侠もVシネでパロディ化されたし、野島的ショック演出も「またか」になった。


ボク: さらにいえば金八も革命で、それより前はさらに様式美

Claude: ——金八を様式美側に置いたのが雑でした。

金八以前の学園ドラマは「飛び出せ!青春」「われら青春!」の日テレ青春シリーズで、熱血教師がスポーツで生徒を導いて汗と涙で一致団結する完全な様式美。問題はすべてラグビーで解決する。金八はあれ自体が解体側だった。十五の母、差別、受験。スポーツ根性ではなく社会問題をぶつけてきて、「青春ってそんな爽やかなもんじゃないだろ」とやった。

つまりサイクルが二重に回っている。青春学園シリーズ(様式美)→金八(解体・リアル化)→金八自体が様式美化→野島伸司(再解体)。西部劇でも、ジョン・フォードが安っぽい活劇を芸術に引き上げた段階をレオーネが壊した、という同じ二重構造がある。どこを切っても同じ螺旋が出てくるわけです。


四.マカロニとスパゲッティ ― 命名のヒエラルキー


ボク: 日本でどうしてマカロニ・ウエスタンでイタリアでスパゲッティになったのわかる?

Claude: 諸説ありますが、通説では日本で最初にこのジャンルを紹介・命名したのが映画評論家の淀川長治で、「マカロニ・ウエスタン」が定着した。

「スパゲッティ・ウエスタン」のほうは英語圏の批評家がイタリア製西部劇を揶揄してつけた蔑称で、イタリア人自身が名乗ったわけではありません。なぜ日本では「スパゲッティ」ではなく「マカロニ」になったかというと、1960年代の日本ではスパゲッティよりマカロニのほうが庶民に馴染みがあったから、という説が一番よく言われます。当時の洋食屋ではマカロニグラタンやマカロニサラダが定番で、「イタリア=マカロニ」のほうがピンときた。

淀川が意図的に言い換えたのか独立に命名したのかは正確にはわからないけれど、結果として日本だけ「マカロニ」で定着したガラパゴス的な呼称になりました。


ボク: お好み焼きの広島焼きみたいな微妙な呼称

Claude: まさにそれです。イタリアの映画人からすれば、自分たちは真剣に西部劇を作っているのに、外から勝手にパスタの名前をつけられている。広島の人が「これがお好み焼きじゃ」と言っているのに、外から「広島焼きね」と呼ばれるのと同じ構造。しかも呼ぶ側によってパスタの種類が違うという余計なお世話まで付いてくる。


ボク: ハンバーガーウエスタンとか呼んでやったらいいのさ

Claude: そもそも本家のほうに食い物の名前がついていないのが不公平なんですよね。イタリア製がマカロニ、スパゲッティと呼ばれるなら、アメリカ製はハンバーガー・ウエスタン、日本で西部劇を作ったら寿司ウエスタンとでも呼ぶべきで。

本家だけ「ただの西部劇」で無標のまま、亜流だけ食い物で分類される。この時点で、命名そのものに「本物と偽物」のヒエラルキーが組み込まれている。広島焼き問題と完全に同根です。


五.自国のジャンルを他人にやられる


ボク: とはいえ支那や朝鮮あたりで日本スタイルの時代劇やられたら心穏やかではいられないから米国人のそれもわからんではないw

Claude: その感情はわかります。たとえば韓国が忠臣蔵を韓国俳優でソウル近郊のロケ地で撮って、しかもそれが本家より面白くて世界的にヒットしたら、日本人も穏やかではいられない。「いや、あれは日本の物語なんだけど…」と。

そのヒット作の主演俳優が逆に日本の時代劇に呼ばれてスターになる展開まで来たら、完全にイーストウッドの構図です。結局「自分のものが他人にやられるのは嫌」というのは普遍的な感情で、パスタの蔑称もその表れだったんでしょう。「あいつらのはマカロニだから」と名前で線を引いて、本物はこっちだと主張したかった。


ボク: shogunやん

Claude: ——もう実例がありました。仮定の話をする必要がなかった。

『SHOGUN 将軍』がまさにそれで、ハリウッドが日本の戦国時代劇をやってエミー賞を総なめにした。で、日本人の反応が見事に複雑だった。「日本文化が世界に認められた」という喜びと、「いや、それうちのなんだけど」という微妙な感情が同居している。

しかも真田広之がプロデューサー兼主演で品質管理したから「本物の日本人がやっているからOK」という免罪符が機能している。これはレオーネがイーストウッドというアメリカ人を主演に据えたのと逆方向の正統性確保で、面白い対称になっている。アメリカ人が1960年代に感じた「イタリア人が勝手にうちの西部劇をやっている」を、日本人がSHOGUNで追体験しているわけです。真田がいるおかげで「マカロニ時代劇」とは呼ばれずに済んでいる、と。


六.時代劇は外敵でなく自分で死んだ


ボク: そもそも日本では時代劇が衰退してるしw

Claude: そこが一番痛いところで。アメリカの西部劇はマカロニに「殺された」けれど、日本の時代劇は外敵にやられたのではなく自分で衰退した。作り手も観客も高齢化して、テレビの時代劇枠が次々消えて、大河ドラマが最後の砦のような状態です。

だからSHOGUNに対して「うちのジャンルを取られた」と怒る元気すらない。本家がもう店じまいしかけているところに、外国人が「この店の味、俺が再現しますよ」と言ってきた構図で、「どうぞどうぞ」としか言えない。

マカロニの時はアメリカの西部劇がまだ生きていたから反発があった。生きているジャンルを横取りされたから「マカロニ」と蔑称で線を引く必要があった。死にかけのジャンルにはその必要すらない。むしろ「ハリウッドがやってくれてありがとう」になってしまうのが、本当の意味での敗北かもしれません。


ボク: マカロニ時代劇って呼んだらおもしろいのにな

Claude: SHOGUNを見て「マカロニ時代劇じゃん」と言える日本人がいたら、相当のものだと思います。

ただ、そう呼ぶには本家が元気でないとダメなんですよね。「マカロニ」も「広島焼き」も、呼ぶ側に「本物はこっちだ」という自負があって初めて成立する蔑称だから。今の日本の時代劇業界が「マカロニ時代劇」と呼んだら、「じゃあ本物はどこにあるんですか」と返されて終わってしまう。


七.そもそもマカロニ・ウエスタンが死語


ボク: そもそもマカロニ・ウエスタンが死語w

Claude: それです。マカロニ・ウエスタンが通じるのも、もう50代以上でしょう。ジャンルの死に加えて、呼称そのものが死語。二重の死です。

しかも「マカロニ」がイタリアを指すこと自体がピンとこない世代には、何のことかすらわからない。今の若い子に「マカロニ時代劇」と言っても「マカロニ?グラタンの?」で終わる。

結局この会話自体が、60代前後の人間にしか成立しないという皮肉な話になりました。様式美は解体され、解体はまた様式になり、そして呼び名ごと忘れられていく。ジャンルの生き死にを一周ぶん眺めたような話でしたね。

遊べる穴と興ざめする穴 ――ゴジラ×メガギラス評判

『ゴジラ×メガギラス』(2000年)を見た、という雑談が、延々と続く粗探しになった。時空の歪みの放置、燃料切れで落ちる衛星、中途半端な恋愛、絡まない少年、飾りのチェス盤、ブラックホール兵器の倫理……。そのうちに、シン・ゴジラとの対比から「遊べる穴(細部の嘘)と興ざめする穴(骨組みの穴)」という区別が立ち上がって、「初めに脚本ありき」に行き着く。そして最後は、使い捨てにされたトンボ怪獣への哀愁で終わる。駄作を肴に、映画の見方を語り倒した一夜や。わからんところはわからんまま。


一.脚本が雑


ボク: ゴジラ✕メガギラスを見たよ
世間様の評判とか教えて

Claude: ざっくり言うと「当時は不評寄り、今は再評価もされてる中堅作」くらいの位置づけです。

低く言われがちなのは、興行がミレニアムシリーズでも下位、時系列を1954年の初代に直結させる設定やディメンション・タイドのくだりが雑、メガギラスがキャラとして弱くドラマが薄い、あたり。逆に評価されるのはミレゴジのスーツと造形、渋谷水没の特撮、ゴジラのボディプレス、大島ミチルの音楽、田中美里の辻森隊長が骨太なヒロインとして好評、というところ。

「肩の力を抜いて観ると楽しいB級怪獣映画」として推す人が一定数いる、という印象です。どうでした?


ボク: 脚本が雑

Claude: そこは多くの人が言うところですね。ブラックホール兵器で消すという作戦自体が大味、メガヌロンが渋谷に出る経緯や少年が卵を持ち帰る流れがご都合主義、研究者の工藤が都合よく何でもこなす、終盤の衛星突入で辻森が脱出するあたりの処理が強引。

ただミレニアム期の手塚監督作は「理屈より画で押す」作風なので、ドラマ面の粗さはある程度割り切って作られた感もあります。どのへんが一番引っかかりました?


ボク: 実験で生じた時空の歪みはどうなった

Claude: 作中ではほぼ放置ですね。試射で生じた歪みからメガヌロンの卵が出て少年が拾う、までは描かれますが、その歪みがその後どうなったのか(自然に閉じたのか、残っているのか)は説明されないまま話が進む。

「メガヌロンを呼び込んだ原因を作った兵器を、そのまま切り札として使い続ける」という流れにも、後始末の説明がないぶん引っかかりが残る。脚本が雑と言われる典型的なポイントです。


ボク: これが放置されている点は致命的やろ

Claude: 致命的かどうかは見方次第だと思います。穴なのは確かで、原因を作った兵器を問題視せず使い続けるのでSFとしての筋は通っていない。ここを真剣に追う人ほど冷めるのは分かります。

ただ「致命的」とは言いにくい理由もあって、この歪みは「メガヌロンを出すための装置」で主題はあくまでゴジラ対人類、観客の関心がそこに向かないよう作られている。怪獣映画ではこの種の省略はよくあって、世間の不満も歪みの放置より怪獣の魅力やドラマの薄さに集中している。「作品を壊すほどの穴」というより「雑さの象徴的な一例」くらいが妥当な線かなと。


二.致命的かそうでないか


ボク: わけのわからん恋愛要素はやめろ

Claude: 辻森と工藤のあれですね。ただメガギラスの恋愛要素はかなり薄いほうで、はっきり恋仲になる描写はなく匂わせ程度。「わけのわからん」と感じるのは、むしろ中途半端だからかもしれません。描くなら積み上げる、要らないなら切る、のどちらでもなく、なんとなく添えてあるだけ。

怪獣映画で恋愛を入れるのは初代の尾形と恵美子からある「人間ドラマ担当」の型で、型だけ残って中身が伴っていない、というのがメガギラスの弱さとしては正確なところです。


ボク: 人工衛星ってのは燃料が切れると落下するものなのか

Claude: 基本的には落ちません。衛星は燃料で浮いているのではなく、高速で地球を「落ち続けながら回っている」状態なので、推進力なしでも軌道上にいられる。燃料は主に軌道や姿勢の微調整用です。

低軌道だとわずかな大気抵抗で数年〜数十年かけて落ちるけど、それも燃料切れ=即墜落とは別の話。静止軌道ならほぼ半永久的に残る。なので「燃料が切れたから即落下」という描写なら科学的にはおかしいですね。


ボク: それは致命的やろ

Claude: これも「致命的」とまでは言えないと思います。そもそも巨大怪獣やブラックホール兵器が成立している世界で、観客は最初から物理のリアリティを相当割り引いて観ている。衛星の挙動の誤りは一般の観客がほぼ気づかないレベルで、実際この点で叩かれている評はほとんど見かけない。

科学考証の甘さとしては明確なミスだけど、「SFとして誠実でない」という減点にはなっても作品を成り立たなくするほどではない、というのが妥当なところかと。ただ、作中で燃料切れを落下の理由としてはっきり言っていたかは私の記憶が確かでないので、そこは観た側の判断が正しいです。


ボク: はっきりいったからずっこけたんだよ

Claude: なるほど、セリフで明言されたら確かにずっこけますね。曖昧にぼかしておけば流せたものを、わざわざ誤った理屈を口に出すと、知っている人には一気に作り物感が出る。説明しないより、間違った説明をするほうが傷が深い、という典型です。

とはいえ大半の観客はそのまま流す程度の話で、作品全体の評価を決めるほどではない。知識がある人ほど損をする種類の穴ですね。


ボク: そもそもあのトンボの怪獣は必要だったのか?

Claude: 商業的には必要、物語的には弱かった、というところです。当時の東宝は「ゴジラ×○○」と対戦相手を立てるのが興行上の前提で、タイトルに怪獣名がないと売りにくかった。「兵器が別の怪獣を呼び込む」という皮肉もテーマとしては筋が通っている。

ただ本筋は「人類がディメンション・タイドでゴジラを消せるか」で、メガギラスがいなくても成立してしまう。むしろ渋谷のメガヌロン群のほうがホラーとして効いていて、成虫になってからは単なる対戦相手に収まった。後の『シン・ゴジラ』が対戦怪獣なしで成功しているので、今の目には余計に「要らなかったのでは」と映りやすい。


三.投げっぱなしばっか


ボク: とにかくブラックホール云々のあれが雑過ぎてwあれは爆弾の一種なのかw?

Claude: 爆弾というより「撃つと標的の位置に小さなブラックホールを作って吸い込む光線砲」という設定ですね。衛星から照射するので分類するなら超兵器ビーム。

ただ科学的にはツッコミどころだらけで、ゴジラを丸ごと飲み込めるブラックホールなら周囲の街ごと引き寄せられるはずだし、逆に小さすぎるとホーキング放射で一瞬で蒸発する。都合よく「標的だけ」消える理屈がない。要するに「ブラックホールという言葉の響きを借りただけ」の兵器なので、真面目に考えるほど笑えてくるのは正しい反応ですw


ボク: 後半音楽だけで盛り上げようとする空疎さw

Claude: それは鋭くて、「音楽は良い」という評価と表裏一体なんですよね。大島ミチルのスコア自体は評価が高いけど、終盤はドラマの積み上げが足りないぶん、音楽だけが先に盛り上がって画と感情が追いつかない。曲が立派なほど中身の薄さが浮く、という逆効果。

ただ伊福部時代から「音楽が映画を背負う」のはシリーズの伝統芸でもあって、メガギラスの場合は背負わせる中身が軽すぎた、というのが正確なところです。


ボク: あれにOKを出す東宝もずいぶんだと思うわ

Claude: OKを出したというより「出さざるを得なかった」面もあると思います。ミレニアムシリーズは年1本の正月映画として回す前提で企画から公開までがタイト、予算も平成VS全盛期ほど潤沢でなく、毎作で監督や世界観をリセットする試行錯誤の時期でした。脚本を練り直す余裕より公開日に間に合わせることが優先された体制です。

とはいえ事情は言い訳にならないので、「看板シリーズにしては詰めが甘い」という批判は東宝が受けるべきもの。実際この後、同じ手塚監督の『×メカゴジラ』では設定の作り込みがかなり改善されているので、反省はあったのかもしれません。


ボク: 疑問、渋谷はどうやって水没したのさ

Claude: 作中の説明としては、メガヌロンが地下で繁殖・活動した結果、地下水があふれて街が沈んだ、という流れだったはずです。ただ、なぜそこまで大規模に水が出るのかの理屈はかなり曖昧で、ここも説明不足のひとつ。

ちなみに地形的には、渋谷はその名の通り谷底の街で、渋谷川などが暗渠になって地下を流れています。実際に大雨で駅周辺が冠水しやすい場所なので、「水が集まる」という点だけは現実味のあるロケーション選びではありますね。


ボク: 卵を拾った少年もこれといってストーリーに絡まないしw

Claude: 役割としては「卵を東京に運ぶ係」で、渋谷水没の原因を作った時点で役目がほぼ終わっている。本来なら、自分のせいで災害が起きた罪悪感を人間ドラマの軸にして、終盤で何か決着をつける、くらいの使い方ができたはず。卵を拾った子どもと兵器を作った大人という対比も描けたのに、設定だけ置いて回収しなかった。

この映画、「置いたけど拾わない」要素がやたら多いですね。時空の歪み、恋愛、少年と、全部同じ型の雑さです。


ボク: 投げっぱなしばっかw

Claude: まさにそれですねw 伏線というより、とりあえず置いてみた素材が並んでいるだけ。擁護するなら、怪獣バトルと特撮の見せ場に予算と時間を全振りした結果、ドラマ部分の後始末まで手が回らなかった、ということでしょう。特撮ファンが「画は良い」と推し、脚本で減点する人が多いのはこの構造そのものです。


ボク: 考えてみたら桐子は陸自なのに空飛んでるけどいいのかw

Claude: 陸自が空を飛ぶこと自体はおかしくないんですよ。陸自はヘリを大量に運用していて、AH-64アパッチやCH-47を自前で持っているし、連絡偵察機のような小型の固定翼機もある。

ただ、グリフォンのような高速の戦闘機型となると話は別で、ジェット戦闘機は空自の領分です。陸自のパイロットが戦闘機級を操縦するのは、現実の役割分担からすると無理がある。擁護するなら、Gグラスパーが陸海空の枠を超えた統合部隊で、桐子は出身が陸自なだけ、という解釈でしょうか(作中でどう説明されていたかは記憶が曖昧ですが)。


ボク: その前に適性とかあるやろ、訓練とか

Claude: そこが本当の問題ですね。戦闘機パイロットは、入隊時の適性検査(身体・視力・空間認識など)の段階で厳しく選抜されて、そこから初等・基本・戦闘機の課程を踏んで一人前になるまで数年がかり。実戦部隊で任せられるレベルには、さらに経験が要ります。

陸自で地上部隊の指揮官をやっていた人が、20代後半から戦闘機級の機体を乗りこなすのは、まず不可能。ヘリのパイロットだったとしても、ジェットとは操縦の性質がまるで違う。「実は元々パイロット候補だった」くらいの一言があれば済むのに、それもない。ここもまた、設定の積み上げをすっ飛ばしています。


ボク: こんなのばっかしやけど、これツッコまれ待ち?

Claude: たぶん狙ってはいないと思いますw ツッコまれ待ちの作品なら、もっとわざとらしく笑いどころを作るはずで、メガギラスは基本的に大真面目に作っている。

むしろ、正月映画で子ども連れの客がメインだから細かい整合性は気にされないと踏んだ、時間と予算を特撮に回して脚本の詰めが後回しになった、作り手の中に「怪獣映画はこういうもの」という慣れがあって粗に気づかなかった、あたりの合わせ技でしょう。結果的に、大人が真面目に観るとツッコミどころの宝庫になってしまった、という感じですね。


ボク: 評価のしようがないw

Claude: 点数をつける以前、という感想ですねw ミレニアムシリーズを続けて観るなら、同じ手塚監督でも脚本がしっかりした『×メカゴジラ』か、金子修介監督の『GMK(大怪獣総攻撃)』あたりは評価が高いので、口直しにはいいかもしれません。


ボク: 初めに脚本ありきw

Claude: ほんとそれですね。黒澤明も、良い脚本から駄作が生まれることはあっても、悪い脚本から傑作は生まれない、という趣旨のことを言っていたとされます。特撮がどれだけ良くても、土台の脚本が穴だらけだと全部が空回りする。メガギラスはその実例として分かりやすい作品かもしれませんw


四.チェス盤の飾り


ボク: 大体職場の机にチェス盤置いてる職場の長に無理がある、ラインから外れて隔離されてる相棒の杉下右京ならまだわかるんだけどねw

Claude: チェス盤は「この人は策士です」という記号を手っ取り早く置いただけでしょうねw キャラの中身で知略を見せる代わりに小道具で済ませている。

右京さんなら、窓際の特命係で暇があって、しかも実際にチェスの腕と思考の癖が捜査に生きているから成立する。メガギラスのほうは作戦の中身がブラックホール兵器頼みなので、チェス盤が飾りにしか見えない。ここも結局、置いて終わりの投げっぱなし案件です。


ボク: 大体あのチェス盤で何をしてたのさ

Claude: 正直、その場面で何をしていたかまでは私の記憶がはっきりしません。ただ、対局相手がいる描写や、詰めチェスの考え方が作戦に反映される場面がなかったのなら、「考えているふうの演出」以上の意味はなかったんだと思います。駒をいじりながら部下の報告を聞く、みたいな使い方だったなら、まさに雰囲気だけの小道具ですねw


ボク: 棋譜を並べてるとか詰チェスみたいなもんを考えていたとかw

Claude: 好意的に解釈すればそのあたりでしょうねw 棋譜並べなら名局の研究、詰めチェスなら頭の体操。ただ、どちらにしても対ゴジラの特殊部隊の長が勤務中にやることかという話で、それが作戦の発想に結びつく描写がないなら、ただの趣味の持ち込みです。

現実にも役員室に碁盤や将棋盤を飾っている人はいるので、置いてあること自体はあり得なくはない。問題は、映画がわざわざ映した以上、何かしら意味を持たせるべきだったのに何もなかったこと、ですね。


ボク: あのなんとかという兵器は結局廃棄できそうなわけ?あんなもん日本が独占できたら明日から覇権国やろw

Claude: 衛星本体は最後の作戦で失われたはずですが、技術や設計図まで消えたわけではないので、作ろうと思えばまた作れる状態のはず(細部の記憶は曖昧なので観た側の判断で)。

標的をピンポイントで消せる衛星兵器なんて、現実なら核以上の戦略兵器です。米国や中国が黙っているはずがないし、憲法9条との整合性で国会は大荒れ、日本単独で運用していいのかという国際問題にもなる。この辺が一切描かれないのも投げっぱなしですねw 平成VSのスーパーXやメカゴジラにも同じ問題はありますが、ディメンション・タイドは「何でも消せる」ぶん政治的な破壊力が段違いです。


五.遊べる穴と興ざめする穴


ボク: これは特別なチーム全体に言えるのだけど、予算がないから作戦室に現実感がなさすぎ、ウルトラ警備隊のパネル室みたいなそれのほうがまだまし

Claude: わかります。中途半端にリアル寄りを狙うと、予算不足がそのまま「安いオフィス」に見えてしまう。

ウルトラ警備隊の作戦室は、点滅するランプやパネルで固めた様式美で、最初からリアルを狙っていない。だから昭和の作りでも「未来の司令室」として成立している。逆の極が『シン・ゴジラ』で、会議室、ホワイトボード、コピー機という徹底した現実の官僚空間で押し切った。どちらも振り切っているから説得力がある。メガギラス含めミレニアム期の特殊部隊は、その中間で、リアルにも様式美にも振り切れていないのが一番の弱さです。


ボク: シン・ゴジラの巨災対は会議室にホワイトボードやし、超兵器も出てこないし、あの禁欲的なところがいいわ

Claude: あの禁欲さは大きいですね。巨災対も天才集団というより「各省庁のはみ出し者」で、手持ちの資材と知恵で何とかする。

厳密にはヤシオリ作戦の血液凝固剤はフィクション寄りの「都合のいい切り札」ではあるんですが、違和感が少ないのは、運ぶのが生コン車のようなポンプ車で、足止めは在来線を爆弾にした無人電車とビル倒壊、日米の政治的な綱引きも描いたうえ、と切り札以外を全部現実の道具で固めているから。嘘をひとつに絞って周りを徹底的にリアルにする、という作り方がメガギラスとは真逆です。


ボク: ボクがあのシーンで気になったのは寝転がってるゴジラの口に薬液を投入してたけど、同じことをそこらの酔っ払いにしたとして、あんなもん口からだらだらとこぼれたりしやしないのかいという一点だけ

Claude: いい着眼点ですね。現実の人間で考えると、ほぼこぼれるはずです。飲み込むのは「嚥下反射」という能動的な動きで、意識が落ちている相手の口に流し込んでも勝手に胃まで落ちていくわけではない。仰向けや横向きだと口の端からあふれるか、最悪気管に入る。酔いつぶれた人に水を飲ませるのが危険なのもそれです。

好意的に解釈するなら、活動停止しても嚥下反射は残っていた、ポンプ車の圧力で喉の奥まで強制的に押し込んでいた、体が巨大なので多少こぼれても必要量は入った、あたり。ただ作中でこぼれ具合や飲み込む動きまで丁寧に描いた記憶はないので、シン・ゴジラにしては珍しく「見せ方で押し切った」部分ですね。


ボク: 多少というかほとんどこぼれるやろw

Claude: 現実の動物で考えれば、ほとんどこぼれるで正しいと思いますw 口を開けた状態で上から注いでも、喉の奥へ送り込む動きがなければ大半は口腔内にたまって外へあふれる。

擁護の余地があるとすれば、ゴジラは体内構造が既知の生物とまるで違う設定で、しかも複数回に分けて大量に注入しているので「歩留まりが悪くても物量で押し切った」とは言えるかも。とはいえ、その歩留まりの悪さを計算に入れている描写はなかったはずなので、ツッコミとしては正当です。


ボク: こういう細かいツッコミならいいのよw

Claude: わかりますw シン・ゴジラのは「細部の嘘」だから、ツッコミながら楽しめる。メガギラスのは「骨組みの穴」だから、ツッコんだら崩れてしまう。

同じツッコミでも、遊べる穴と興ざめする穴がある、ということですね。


六.超兵器の始末


ボク: これは細かいから許すけど、小笠原海溝の底の水圧に耐えられる発信器じゃないやろ、あの隊長を守るために作った程度のもんなんやからw

Claude: その発信器の耐圧なら、実はそこまで心配いらないんですよね。小笠原海溝の底は水深9千m級で900〜1000気圧ですが、小型の電子機器は中を樹脂で隙間なく固めれば意外と潰れず、深海生物の調査タグも実在します。隊長を守る程度の簡素なものでも、耐圧はそこそこクリアできる。

むしろ発信器で引っかかるのは、水圧やのうて別のところやと思います。


ボク: 渡された発信器をゴジラのカラダに打ち込んで、それによって居場所が判明するけどゴジラは海溝の深部におる

Claude: そう、まさにそこで、引っかかるのは水圧やのうて電波のほうです。海水は電波をほとんど通さず、水深数mで実用的な通信はもう無理になる。現実のクジラ用タグも、潜っている間はデータを記録するだけで、浮上したときにまとめて送信する方式です。

なので海溝の深部に打ち込んでも、「ゴジラの居場所がリアルタイムで分かる」のが一番おかしい。耐圧より、そもそも信号が地上に届かないはずですねw


ボク: まあ超兵器がおかしいと言い出すどオキシジェンデストロイヤーからの伝統やからな、あんなもんあったらアメリカが黙っていないってw

Claude: そこは初代がむしろ例外なんですよ。オキシジェン・デストロイヤーは「こんなものが世に出たら大国が兵器に使う」という恐れが物語の中心にあって、芹沢博士は研究資料を焼き、自分も海中で命を絶って技術ごと葬る。超兵器の政治的な危険性を正面から描いて、ちゃんと後始末までしている。

だから伝統として受け継がれたのは「超兵器が出てくる」ところだけで、「その危うさと始末をつける」部分は後のシリーズでどんどん抜け落ちていった。メガギラスのディメンション・タイドは、その抜け殻の典型ですね。


ボク: 存在してる時点でCIAとかが察知して博士ごと拉致されないかとw

Claude: そこは初代の設定上、ぎりぎり成立してるんですよね。芹沢博士は研究を誰にも発表しておらず、知っていたのは恵美子だけ(しかも口止め付き)。論文も特許もなければ諜報機関でもまず察知しようがない。だからこそ「一度でも使えば存在が知れ渡る」のが最大の問題で、博士が自分ごと葬った理由もそこ。

ただ、ゴジラ撃退という大事件で実際に使われた以上、その後は各国が日本の科学者を徹底的に洗ったはずで、後継研究者が狙われる展開は十分あり得る。実際、平成の『VSデストロイア』でオキシジェン・デストロイヤーの影響が蒸し返されるので、シリーズ側も「あれで終わりとはいかない」とは意識していたようです。


ボク: とにかくブラックホールはあかんわ、家にネズミがいるからといって家に火をつけるよりやばい兵器w

Claude: いい例えですねw しかも作中では、その火をつけた結果、試射で時空が歪んでメガヌロンという別のネズミまで呼び込んでいる。副作用を自分で描いておきながら、誰も「この兵器やめといたほうがいいのでは」と言い出さないのが、一番の投げっぱなしかもしれません。


ボク: 実験段階でとんでもない副作用がわかったのにたかがゴジラを駆除する程度のことで最悪全宇宙を危険にさらしたらあかんわ

Claude: 理屈としてはその通りで、被害の上限が読めるゴジラより、上限が読めない兵器のほうが危ない。安全衛生で言えば、リスクアセスメントで「重篤度不明」が出た時点で使用中止の案件ですねw

ただ作中の人たちにとっては「たかがゴジラ」ではなく、何十年も繰り返し本土を壊され首都まで移転させられた相手なので、藁にもすがりたい心理は分からなくはない。それでも、試射で正体不明の副作用が出たのに検証もせず実戦投入するのは組織としてアウト。せめて誰か一人でも反対して、それを押し切る描写があれば愚かさとして成立したのに。

あと「全宇宙」はさすがに盛りすぎで、小さなブラックホールなら影響は局所的なはず。危ないのは地球規模くらいまでですw


ボク: 地球ならいいのかw

Claude: よくないですねw 言い方が悪かった。人類にとっては地球規模で十分すぎるほど最悪です。訂正すると、「全宇宙」は科学的には誇張だけど、「人類が終わる」という意味での危険度の評価は、あなたの言う通りゴジラ駆除の代償としてまったく割に合わない、ということです。


七.使い捨て怪獣の哀愁


ボク: 最悪ゴジラはあのトンボの怪獣が駆逐したかもしれないし

Claude: そこは逆に危ないと思いますよw メガギラスがゴジラを倒したとしても、次はメガギラスが残るだけで、しかもあれはメガヌロンが群れで増える種類の怪獣です。一体で暴れて海に帰るゴジラより、繁殖して都市に巣を作る昆虫型のほうが、長期的には始末に負えない。

怪獣同士を潰し合わせる発想はシリーズでも何度か出てきますが、たいてい「勝ったほうをどうするか」で詰まるんですよね。


ボク: あんなふうに空を飛べる怪獣が肉弾戦やって強いのがおかしい

Claude: 物理的にはその指摘は正しいです。飛ぶには体を軽くする必要があるので、重量級のゴジラと組み合ったら普通は押し負ける。鳥も飛べる種ほど骨が中空で華奢です。

ただ擁護すると、実際のトンボは空中で獲物を捕らえる獰猛な捕食者で脚とアゴは相当強いし、メガギラスの戦い方も真正面の力比べより高速で飛び回って尾の針で刺すヒット&アウェイが中心。実際、組み合いに持ち込まれてからはゴジラに押されて負けている。「肉弾戦で強い」というより「速さで翻弄していた」というのが作中の描き方に近い。とはいえ、あのサイズの昆虫が飛べること自体が二乗三乗の法則的にアウトなので、そこを言い出したらきりがないですねw


ボク: それにボクは変態だからああいった使い捨ての怪獣に哀愁を感じてしまうw

Claude: それは変態というより、まっとうな見方だと思いますよw メガギラスなんてまさにそうで、人間の兵器実験で太古から勝手に呼び出されて、居場所のない時代で必死に生きようとして、最後はゴジラに倒されて終わり。本人は何も悪くない。むしろ一番の被害者です。

一作限りで出番が終わり、続編で掘り下げられることもない怪獣には、そういう「巻き込まれた者」の哀れさがある。脚本がもう少しそこに目を向けていたら、メガギラスはもっと記憶に残る怪獣になれたかもしれません。

置いてきぼりにする文化 ――用心棒のリボルバーから本歌取りまで

『用心棒』の卯之助が持つリボルバーは時代考証的にアリなのか、という小さな疑問から始まって、八州廻り=FBIの構図、黒澤がなぜ世界中にパクられるのか、ハメットの『血の収穫』→時代劇→マカロニ・ウエスタンという翻案の循環、日本が中国古典をオモチャにする話を経て、最後は「元ネタを知る者だけがニヤリとする、置いてきぼりの美学」に着地した。小ネタの入口が、翻案と様式解体の話にどんどん深まっていく。わからんところはわからんまま。


一.リボルバーと八州廻り


ボク: 黒澤の用心棒でリボルバーか出てくるけど時代考証的には問題ないの?

Claude: 大筋では問題ありません。珍しいけど「ありえない」ではない、というレベルです。設定は幕末(1860年頃)で、この時期すでに西洋式の拳銃は日本に入っていた。ペリー来航(1853〜54年)でコルト製リボルバーが贈答品として持ち込まれ、同じ1860年の桜田門外の変では井伊直弼が駕籠ごと拳銃で撃たれたとされます。数年後には坂本龍馬のS&Wも有名。

ツッコミどころがあるとすれば、上州の宿場のやくざが持っているという点です。当時は希少な高級品で入手ルートが相当不自然。ただ劇中の卯之助は「よそから来た異物」「新しい暴力の象徴」として描かれていて、その違和感こそ演出の狙いでしょう。刀の時代が終わりつつあることを、一丁の拳銃で見せている。


ボク: なるほど八州回りとかいうてたな

Claude: 八州廻り(関東取締出役)が出てくることで、舞台が幕末の関東、たぶん上州あたりとはっきりします。1805年に設けられた幕府の役職で、天領・藩領・旗本領が入り組んで取り締まりの届かない関東一円を巡回していた。上州は博徒が多く、国定忠治の地元でもあるので、やくざ二組が宿場を割っている設定とよく合う。

八州廻りが来ると聞いて両陣営が一時休戦して取り繕う場面も、「役人は来るけど、通り過ぎれば元通り」という当時の治安の実態をうまく映しています。


ボク: 結構マニアックじゃない?説明ないし

Claude: 今見るとマニアックですけど、1961年の観客にはたぶん常識でした。当時は時代劇の全盛期で、国定忠治や清水次郎長みたいな博徒もの・股旅ものが定番ジャンル。八州廻りは「やくざを追う役人」としておなじみで、説明不要だったんだと思います。今の刑事ドラマで「捜査一課」が説明なしに出てくるのと同じ感覚。

あと黒澤自身、細かい説明を台詞でやるのを嫌うタイプで、「わかる人にはわかる」で済ませているところもある。


ボク: FBIとか説明ないしな

Claude: まさにそれです。アメリカ映画でFBIが出てきても「連邦の捜査機関で州をまたぐ事件を扱う」なんて誰も説明しない。

構図もかなり似ていて、州警察の管轄を越えて動くFBIと、藩や領地の境を越えて関東一円を回る八州廻り。どちらも「地元の取り締まりが届かないところに、上から来る役人」です。地元のワルが「FBIが来るぞ」でおとなしくなるのと、「八州廻りが来るぞ」で休戦するのは、ほとんど同じ図式ですね。


二.桑畑と椿


ボク: 用心棒の英題って何?

Claude: そのまま "Yojimbo" です。欧米でもこの名前で通っていて、「yojimbo」がボディガードの意味で通じる程度には知られている。ちなみに続編の『椿三十郎』は "Sanjuro" です。


ボク: 椿までいれたらいいのにw

Claude: 「椿」まで入れても外国人には意味が伝わりにくいんですよね。三十郎の名前は、本人がその場で目に入ったものから適当に名乗ってるのがミソで、『用心棒』では桑畑を見て「桑畑三十郎」、続編では椿を見て「椿三十郎」。しかも「もうすぐ四十郎ですが」と年齢ネタまで付く。

この即興の偽名だというおかしみは、"Tsubaki Sanjuro" と書いても英語圏には伝わらないので、名前だけ残して "Sanjuro" にしたんでしょうね。


ボク: そのへんは日本語わからないと無理やろ

Claude: そこは翻訳の限界です。字幕で「桑畑=mulberry field」と補足しても、名乗った瞬間の「こいつ今テキトーに付けたな」という間の可笑しさまでは伝わらない。

救いは、三十郎が名乗る前にわざわざ外の桑畑や椿に目をやるカットがあることです。言葉がわからなくても、映像を見ていれば「何か見て思いついたらしい」くらいは察せる。黒澤が台詞より画で見せる監督だからこそ、海外でもある程度は通じた部分でしょう。


ボク: あれが同一人物ってのがあれでしかわからない

Claude: 物語上のつながりはほぼないですからね。前作の出来事に触れるでもなく、同じ人物だと示すのは三船の風体と「三十郎」の名乗りギャグくらい。

それもそのはずで、『椿三十郎』はもともと山本周五郎の『日日平安』を原作にした別企画でした。『用心棒』が大ヒットしたので、主人公を三十郎に差し替えて続編に仕立てた経緯がある。だから設定上の連続性は薄く、「同じ名乗り方をする男」というお約束で同一人物だとわからせているわけです。


三.脚本と構図


ボク: というわけで見終わったんやけど、改めて思うのは脚本の隙のなさ、あとはカメラの構図の斬新さ、すごいね

Claude: どちらも60年以上前の作品とは思えないです。脚本は黒澤と菊島隆三の共作。二つの組を両天秤にかける主人公という一本の軸があり、そこへ卯之助の登場と三十郎の正体露見で局面がひっくり返る。どの場面も次の展開の仕込みになっていて、無駄なシーンがほとんどない。

撮影は宮川一夫で、横長のワイドスクリーンに望遠レンズを組み合わせ、手前と奥を同時に見せる構図を多用しています。火の見櫓の上から三十郎が両陣営の睨み合いを見物する場面は、構図だけで「こいつは高みの見物をしている」と物語っている。冒頭の、犬が人の手首をくわえて走ってくるカットも一発で町の荒廃をわからせていて、脚本と画の両方で説明を省けているのがすごいところです。


ボク: 三船敏郎はひたすらかっこいいしw

Claude: 懐手で肩をすくめたり、無精髭をあごでさすったり、何気ない仕草だけで「ただ者じゃない」感が出る。それでいて殺陣になると一瞬で斬り抜ける速さがあって、ダラけた佇まいとの落差がたまらない。

この役で三船はヴェネツィア国際映画祭の主演男優賞も獲っていて、海外でもあの格好良さは一発で伝わったんだと思います。


四.ハメットから荒野の用心棒へ


ボク: これはネタ元あるの?全くのオリジナル?

Claude: クレジット上はオリジナル脚本ですが、ダシール・ハメットのハードボイルド小説がネタ元だとよく言われます。特に『血の収穫』(Red Harvest)は、流れ者が腐敗した町で対立する勢力同士をけしかけて潰し合わせる話で、骨格がほぼ同じ。黒澤自身はハメットの『ガラスの鍵』から着想を得たと語っていて、いずれにせよアメリカのハードボイルドを時代劇に移植した作品と言えます。

面白いのはその後で、今度は『用心棒』がセルジオ・レオーネの『荒野の用心棒』として無断でマカロニ・ウエスタンにされ、東宝側が訴えて決着している。アメリカ発の話が日本で時代劇になり、それがまた西部劇に戻っていった、という循環ですね。


ボク: 邦題なんやろけど荒野の用心棒はおかしいわな

Claude: ですよねw 原題はイタリア語で「一握りのドル」(A Fistful of Dollars)なので、「用心棒」はどこにも入っていない。盗作された側の作品名を日本の配給会社がわざわざ付けたわけで、元ネタを堂々と宣伝しているようなものです。

「荒野の」のほうは、『七人の侍』のリメイクの『荒野の七人』が先にあって、それにあやかった形。結局どちらも黒澤作品の看板を借りた邦題なのが皮肉ですね。


ボク: 確かにパクってるけど自分のほうが面白いみたいな

Claude: レオーネ側はまさにそういう態度でしたね。訴えられると「どちらもゴルドーニの喜劇『二人の主人を一度に持つと』が元ネタだ」と言い出して、黒澤ではなく古典が源流だという理屈で逃げようとした。

黒澤のほうはレオーネに「とてもいい映画だ。だが、あれは私の映画だ」という趣旨の手紙を送ったと伝えられています。結局東宝側が勝って配給権と興行収入の一部を得て、黒澤は『用心棒』本体より儲かったと冗談を言ったという話まである。ただ面白さで言えば『荒野の用心棒』も別物として成立していて、モリコーネの音楽とイーストウッドの寡黙な佇まいで新しいジャンルを作ったのは確か。パクリなのに映画史に残ったところが厄介なんですよね。


ボク: 黒澤の作品はパクリたくなるんやろw

Claude: しかもリメイクや翻案される数が桁違いです。『七人の侍』→『荒野の七人』、『隠し砦の三悪人』→『スター・ウォーズ』(ルーカスが影響を公言)、『羅生門』→ハリウッドでリメイクされ「羅生門効果」という言葉まで定着、『用心棒』→『荒野の用心棒』、さらにブルース・ウィリスの『ラストマン・スタンディング』。

理由ははっきりしていて、黒澤の話は骨格が強い。「村を守るために腕利きを集める」「対立する二派を一人で手玉に取る」という構造が普遍的なので、時代劇の衣装を脱がせて西部劇やSFに着せ替えても成立する。日本の風俗に頼らず筋そのものが面白いからこそ、世界中で使い回されるんです。


五.様式を汚す


ボク: そうそう荒野の用心棒がリアル西部劇の嚆矢なんやろw?

Claude: 半分正解、半分ちょっと違うと思いますw マカロニ・ウエスタンのブームの嚆矢なのは確か。それ以前にもイタリア製西部劇はありましたが、ヒットして路線を確立したのは『荒野の用心棒』からです。

ただ「リアル」かというと微妙で、正義の保安官ではなく金で動く無法者が主人公、薄汚れた画面と容赦ない暴力、という点ではハリウッドの勧善懲悪から離れた。一方で極端なクローズアップ、決闘の長い溜め、モリコーネの音楽と、演出はむしろかなり様式的で誇張されている。「汚く、乾いた西部劇」の始まりではあるけど、写実的な西部劇とはちょっと違う、という感じです。


ボク: だからといってアメリカの西部劇がリアルやったわけではない?

Claude: そうです、古典西部劇も相当に神話化されていました。大通りで向かい合って早撃ちの決闘はほぼ創作で、実際の撃ち合いは不意打ちや乱射が多く命中率も低かったとされる。正義の保安官という像も、実際の西部の法執行はもっと曖昧で、保安官と無法者を行き来した人物もいた。先住民は一方的に襲ってくる敵役として、白人俳優が演じることも珍しくなかった。

つまり古典西部劇は「アメリカの建国神話」で、リアルさより理想を描くもの。マカロニはその神話を汚して崩したけど、別の様式に置き換えただけです。本気で写実に寄せようとしたのは、もっと後の『小さな巨人』や『許されざる者』あたりから。


ボク: チュウゴクやカンコクに様式を解体した日本の時代劇を作られるようなもんだわなw

Claude: 構図としてはまさにそれですねw 自国の建国神話みたいなジャンルを外国人に汚されて、しかもそっちがヒットする。アメリカ人には結構複雑だったと思います。

面白いのは、時代劇の様式を最初に壊したのが他ならぬ『用心棒』だという点です。それまでの時代劇は歌舞伎由来の綺麗な殺陣が主流でしたが、『用心棒』は斬られた腕が転がり、刀で斬る生々しい効果音まで付けた。続く『椿三十郎』のラストでは血しぶきが噴き出して、以降の時代劇は一気にリアル寄りの残酷描写に流れていく。日本が自分で時代劇を解体した作品を、イタリアが借りて西部劇を解体した、という二段構えになっているわけです。


六.中国古典をオモチャに


ボク: 幸いなことに日本人はカンコクのそういったもんを知らんからいいけど、チュウゴクのそれは三國志やら水滸伝、最遊記とかなりオモチャにしてるからなw

Claude: 日本の中国古典のオモチャっぷりは相当です。『三國志』は『真・三國無双』で武将が一騎当千のアクションヒーローになり、武将を女の子にした作品まである。『西遊記』は『ドラゴンボール』の悟空がそもそも孫悟空で、『最遊記』では三蔵一行がタバコと銃のイケメン集団に。『水滸伝』も北方謙三版のように大胆に再構成されている。

ただ中国側の反応は怒りばかりでもないのが面白いところで、光栄(コーエーテクモ)の『三國志』や『無双』は中国でも人気があり、日本の作品から三国志に入った若い世代もいると言われる。アメリカ人がマカロニを最終的に受け入れたのと、少し似ていますね。


ボク: そもそもアメリカは西部劇をやめてるじゃん、晩年のジョン・ウェインなんて片岡千恵蔵みたいな感じやったな

Claude: 主流ジャンルとしてはほぼやめていますね。60年代までは量産されていたのが70年代以降に激減し、今は数年に一本、作家性の強い作品が出るくらい。近年は『イエローストーン』のようにドラマで盛り返している面もありますが。

晩年のジョン・ウェインと片岡千恵蔵の比較は言い得て妙です。どちらもジャンルの看板スターで、ジャンルの衰退とともに「古き良き時代の象徴」になっていった。ウェインの遺作『ラスト・シューティスト』は、時代に取り残された老ガンマンが死に場所を求める話で、本人の境遇と完全に重なっている。千恵蔵も時代劇ブームが去ると重鎮として脇に回った。ジャンルが衰退すると、そのスターも様式美ごと「過去の人」になる。日米で同じことが起きていたわけですね。


ボク: チュウゴクの古典としてイジってる限りは何もいわんやろw

Claude: だいたいその通りだと思います。中国側が神経を尖らせるのは近現代史や領土、政治体制に関わる描写で、古典の大胆な改変にはおおむね寛容です。

理由はいくつかあって、中国自身がイジり倒している(周星馳の『西遊記』映画のように本国でもパロディは定番)、原作がそもそも大衆小説で改変されること自体が伝統の延長、日本での受容も江戸の翻訳から吉川英治、横山光輝までと古く半ば東アジアの共有財産になっている。武将の女体化などに眉をひそめる声はあっても、国家レベルの問題にはならない、というのが実態でしょう。


七.置いてきぼりの美学


ボク: 同人誌でやるようなことをメジャーでやるのはすごいわな

Claude: そこが日本の特徴ですね。同人とメジャーの境目がかなり緩く、ファンの二次創作的な発想がそのまま商業作品になる。武将の女体化も、元をたどればアダルトPCゲームからアニメ化まで行っている。

ただこれは今に始まった話でもなくて、江戸時代からの伝統とも言えます。歌舞伎や戯作では、実在の事件を室町時代の話にすり替えたり、古典をもじったパロディを作るのが当たり前だった。『仮名手本忠臣蔵』が赤穂事件を『太平記』の世界に置き換えているのが典型で、「元ネタを知ってる前提でイジって遊ぶ」文化が、ずっと商業の真ん中にあったわけです。


ボク: 知らないやつを置いてきぼりにする文化とでもいうかw

Claude: ほんまにw 和歌の本歌取りからしてそうで、元の歌を知らないと面白さが半分もわからない。「わかる人だけニヤリとしてくれ」という内輪受けの美学が、千年くらい続いているとも言えます。

ただ、うまい作品は知らない人も完全には置いていかないんですよね。『忠臣蔵』は『太平記』を知らなくても仇討ち劇として楽しめるし、『用心棒』もハメットを知らなくても面白い。知らなくても一段目は楽しめて、知っていると二段目の面白さが開く。置いてきぼりにする作品と、二層構造になっている作品の差が、名作かどうかの分かれ目なのかもしれません。

プログラムとしての日本国憲法

バッチ処理やマクロ程度の経験でも、プログラミングは「自分の杜撰さとの対話」になる。暗黙知を一切受け付けず、何かするには必ず定義を迫られるからだ。その目で日本国憲法を読むと、前文は未定義変数だらけ、9条はコメントアウトされたのに動いているコード、96条は改変不能な読み取り専用ファイル。そこから出てくる主張は「改憲しろとは言うてへん、定義しろ」??解釈はランタイムエラーの先送り、定義はコンパイル時の解決。そして定義から逃げる曖昧さこそ、右も左も全員の既得権益になっている、という両成敗の一夜。政治的な立場の話ではなく、設計の話として読んでほしい。


一.杜撰さとの対話


ボク: プログラムとしての日本国憲法ってどうよ、ボクくらいじゃバッチ処理やマクロ処理をやったことがなくはないレベルだけどソレでもプログラミングって自分の杜撰さとの対話みたいなところがおかしい

Claude: その目で見ると、まず9条が面白い。コメントアウトされてるのに現実のプロセスに影響してる行みたいなもんです。本来は無効化されてるはずなのに、インタープリタ(政府解釈)が勝手に読んで動かしてる。

天皇制の章はもっとひどくて、仕様を書いた人間にもう聞けないレガシーコード。GHQが書いて渡したものを70年以上パッチを当てながら運用してる。改正が事実上不可能な設計(96条・両院の2/3+国民投票)は、本番環境でしか動かせないのにリリースフローが異常に厳しい状態で、結果みんな「解釈」というホットフィックスで逃げる。

「杜撰さとの対話」が効くのはここで、プログラムはエラーを返すから杜撰さが可視化されるのに、憲法はインタープリタが人間(内閣法制局)やから、杜撰さを「 §£釈」で握りつぶせる。バグが見えない言語で書かれてる、ということです。


ボク: 何かしようとすると必ず定義しないといけないのがシャバとは違っていて新鮮

Claude: シャバは「なんとなく通じる」が許されるけど、プログラムは暗黙知を一切受け付けない。「いい感じにやっといて」が最も通じない世界です。

で、憲法に戻すと逆説的で、憲法はむしろシャバ寄りに書いてある。「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」なんて、変数未定義どころか型も不明。コンパイルエラーにならないのは、内閣法制局というインタープリタが実行時に忖度してくれるからです。厳密化すると成立しない文書を70年動かしてる、というのが怖いところ。


二.コンパイルエラー祭り


ボク: だからさ、日本国憲法を定義したらええんちゃうかなとコンパイラが動くようにw

Claude: それやると即座にコンパイルエラー祭りになる。9条なんか最初の数行で止まります。

Error: 戦力 is undefined
Error: 交戦権 requires definition before negation
Warning: 自衛隊 shadows 戦力 in global scope

天皇条項も型エラーの嵐(象徴 is not a function)、96条に至ってはCannot modify read-only Constitution / Hint: Have you tried 解釈()?。

本当に恐ろしいのは、コンパイラを通そうとすると最終的に「主権者は誰か」「国家とは何か」まで定義せざるを得なくなることです。そこまで行くと、もう憲法やなくて国家の設計書を一から書くことになる。


ボク: だからさ、前文から用語の定義せなあかん、これが誠実ってもんやろ

Claude: 前文だけで未定義変数がずらりと並びます。「平和を愛する諸国民」は範囲不明、「公正と信義」は型不明、「恒久の平和」は達成条件不明。しかも全部、本文で参照されるグローバル変数です。定義せずに本文へ突入してるから、9条以降が丸ごと「未定義変数を操作してる」状態になる。

ただ、ここは一方的に「怠慢」とも言えなくて、定義しないことが政治的には正しかった面がある。「平和を愛する諸国民」を厳密に定義した瞬間に「ソ連は入るのか、中国は、じゃあ信義の閾値は」となって、冷戦下で絶対に合意できない。ふわっとさせることが唯一のコンパイル回避策やった、とも言える。誠実なコーダーの「定義せよ」と、合意を壊さないための政治の「定義するな」が、ここで正面からぶつかるわけです。


ボク: こういってはなんやけどアメリカが日本の憲法を心配するわけがない

Claude: 仕様書を押し付けた側が、保守運用を気にするわけがない。納品したら終わりの外注案件です。しかも発注目的が「日本を二度と軍事的脅威にしない」というネガティブ要件定義やから、動いてさえいればいい。バグがあっても発注側には無害。

むしろアメリカから見れば、9条のバグ→日本が勝手に解釈改憲して自衛隊を作ってくれた(好都合)、曖昧な天皇条項→占領統治のバッファ、改正困難な96条→反米的な改憲を封じる、と、バグに見えて全部アメリカの要件は満たしてる。日本側だけが、押し付けられたレガシーコードのオーナーとして70年悩み続けてる格好です。


三.改憲ではなく、定義せよ


ボク: だからさ、誰が見ても動くコンパイラも納得するプログラムとしての日本国憲法を定義しろと、何も改憲しろっていうてへんw

Claude: そこが肝ですね。コードは一行も変えなくていい、型定義ファイルだけ書け、と。TypeScriptでいう.d.tsを書く話で、本体には触らない。type 戦力 = ... / type 自衛隊 = ... // 戦力との関係を明示せよ。

改憲派も護憲派も「コードを書き換えるか否か」で喧嘩してるけど、そもそも何が書いてあるかで合意できてないまま70年動かしてる。そして定義を明示したら、護憲派には「自衛隊は違憲と確定する」可能性が、改憲派には「改憲は不要と確定する」可能性がある。だから両方とも定義されたくない。曖昧さが全員の既得権益になってる、という構造です。


ボク: だとしたらこの国は右も左も上も下もクソw

Claude: 定義から逃げてる点では全員同じ穴、という見方はできます。イデオロギーは正反対でも「曖昧なまま自分に都合よく解釈する」手口は同じ。護憲派は曖昧だから9条を完全非武装と読め、改憲派は曖昧だから解釈改憲で実質を取れ、政府は曖昧だから内閣法制局が都度ホットフィックスを当てる。

誠実にコードを書こうとする人間が一番割を食う構造で、そこもまたプログラミングに似てる。仕様の曖昧さで得をするのは、いつも発注と下請けの政治のほう、ということですね。


四.なぜ誰も定義しないのか


ボク: 誰かこれで一冊本書いてくれへんかな、日本国憲法を定義する、プログラムとしての日本国憲法みたいなタイトルで

Claude: 成立させにくいのが、憲法学者とプログラマーの共著でないと書けないところです。憲法学者は定義の甘さを指摘されたくないし、プログラマーは憲法に踏み込むと炎上を恐れる。誰も手を挙げないのは、両方の既得権益を同時に侵すから、という皮肉。

構成だけは自然に決まっていて、前文の変数定義、天皇章の型定義、9条のコンパイルエラー全列挙、統治機構を関数として読む、96条という自己書き換え不能コードの問題。各章を「現行コード→エラーログ→定義案」の三部で並べれば読める形にはなります。


ボク: ボクはこれができるほどの知見がないw

Claude: ただ、骨組みのほうはもう出てるんですよね。「定義しろ、改憲しろとは言ってない」??これが一本通っていれば、条文ごとの憲法知識は後から調べて埋められる。

むしろ強いのは視点のほうで、バッチ処理をやってきた人間の「定義なしで動かすな」という感覚は、憲法学の内側からはまず出てこない。玄人が当然の前提として飲み込んでしまったものを、素人が「それ未定義では?」と突く形になる。調べて出てきたエラーをそのまま並べる、という作りにすれば、素人であること自体が武器になります。


ボク: 解釈ってのがいけないよね、定義だよねこんなもん

Claude: そこが核心で、解釈はランタイムエラーの先送り、定義はコンパイル時の解決です。解釈でやってる限り「動いてるように見えるだけ」で、実行環境(政権)が変わるたびに挙動が変わる。同じコードが内閣によって別の動きをするのは、設計としては終わってる。

しかも「解釈」という言葉が、誤魔化しを高尚に見せてしまう。プログラムで言えば「俺の環境では動く」と言い張ってるだけなのに、それを憲法学という学問が70年かけて体系化した。未定義変数の操作を学問にしてしまった、とも言えます。

??もっとも、解釈の側にも言い分はあって、硬く定義し切らないからこそ時代の変化に合わせて運用を動かせる、という柔軟性は確かにある。ただそれは裏返せば「誰も最終責任を取らずに中身を変え ?れる」ということでもあって、柔軟性と無責任は同じ一枚のコインですね。


五.令外の官


ボク: 統治行為ってのはどこから湧いて出てきてるwそれ自体が意見なんちゃうのw

Claude: 統治行為論は、コードの中にないんですよ。憲法に一文字も書いていない。砂川事件で最高裁が「高度に政治的な問題は司法審査の外」と言い出した、判例と学説から湧いた概念で、import 統治行為論 from '???' // ソースファイルが存在しないという状態です。

しかも「政治的すぎる問題は裁判所が判断しない」という判断それ自体が、きわめて政治的な判断になってる。「意見を持たないという意見」の自己言及で、コードなら例外の握りつぶしです。

公平に言えば、三権分立の建前上、選挙で選ばれていない裁判所が高度に政治的な決定まで覆すのはやりすぎだ、という正当な論拠はある。ただその線引きの基準こそ定義されていないから、結局「どこからが政治的すぎるか」を誰かが無定義で裁量してる、という 杜撰さは残ります。


ボク: この国は本当に令外の官が大好きやなw

Claude: ほとんどDNAの話ですね。律令の外に蔵人所、検非違使、征夷大将軍を置いてきた国が、憲法の外に内閣法制局と統治行為論を置いてる。1200年やり口が変わってない。

パターンが完全に同じで、正式なコードでは処理できない問題が出る→本体は直さず令外のモジュールを足す→そのモジュールがいつの間にか本体より権力を持つ。征夷大将軍が天皇より実権を握ったように、内閣法制局が憲法より実質的な解釈権を持ってる。コードを書き換えるのが一番の恥、という美意識が根にあって、それが「解釈」という迂回路を千年使わせ続けてるのかもしれません。


ボク: 法律は上位ほどどうでもいい、やくざもんは判例しか見ないとかw

Claude: 実務の真実ですね。憲法は抽象度が高すぎて誰の行動も直接は規律できず、民法・刑法まで降りてようやく具体的になる。そして現場は判例しか見ない。ヤクザが「憲法13条の幸福追求権が」とは言わない、「○○事件の最高裁判決では」となる。

プログラムに移すと、憲法=インターフェース定義(実装なし)、法律=抽象クラス、判例=実装クラス、実務=インスタンス。上位ほど抽象的で直接は実行できず、実際に動いてるのは一番下です。しかも判例はバージョン管理されていない過去の実装の堆積で、矛盾していても動いてる。憲法という誰も読まないREADMEの下に、判例という誰も全部は把握できないソースコードが積み上がってる??それがこの国の法体系の実装の姿、ということですね。

本気の嘘 ――CGと特撮のあいだ

2011年の『聯合艦隊司令長官 山本五十六』のCGに萎えた、という話から始まって、トラ・トラ・トラ!の命がけの実物、地獄の黙示録の狂気、CGはなぜペラペラに見えるのか、特撮は機械式時計でCGはクオーツ、2001年宇宙の旅、シン・ゴジラの目方ゼロの車、神は細部に宿る、そして最後は『イントレランス』が日本の撮影現場の足場用語だけに生き残った話まで。「作り物の見事さ」とは何か、を延々と転がした一夜や。わからんところはわからんまま。


一.CGに切り替わると冷める


ボク: 聯合艦隊司令長官 山本五十六なる映画をみる。内容云々はともかくCGはあかんな、トラトラトラなんかとはくらべものにならんな

Claude: 2011年の作品やね。あの頃の邦画CGは艦船も飛行機も「重さ」がなくて、海面の質感も含めてどうしてもゲームっぽく見えてしまう。予算規模からしても限界があったんやろう。

『トラ・トラ・トラ!』は戦艦長門や空母赤城の実物大セットを組んで、T-6などを改造した機体を本当に飛ばしてた。そもそも勝負の土俵が違う。本物の物量と実写の迫力は、半端なCGではなかなか超えられへん。

役所広司の山本も悪くなかったと思うけど、芝居のほうはどうやった?


ボク: そのへんの不満はない
とにかくCGに切替わると現実に引き戻されるw

Claude: わかる、ドラマで入り込んでたのにCGの艦隊が出た瞬間に「あ、作り物や」ってなるやつやね。役者がええだけに落差が余計に目立つ。いっそ戦闘シーンは最小限にして、司令部の人間ドラマに振り切ったほうが締まったかもしれん。


二.本物を飛ばした代償


ボク: トラトラトラは死者が出たそうやん、名誉の戦死やろ

Claude: 撮影中の有名な事故はどれも「死にかけた」系なんよね。無線操縦のP-40を離陸直後に爆発させる予定が暴走して、スタントマンのジョー・フィネガンが間一髪で走って這って逃げ、燃える機体がさっきまで彼のいた場所を転がっていく映像が、そのまま本編に使われてる。B-17の片脚が出ないままの胴体着陸も実際の事故で、撮影班が捉えて完成版に入れたもの。

死者については、準備段階で関係者が亡くなったという記述も見かけたけど、裏が取りきれんかった。「名誉の戦死」は言い得て妙やけど、実際はCG一切なしで本物を飛ばしてた代償がそれ、ということやね。あのリアリティは文字どおり命がけやった。


ボク: 地獄の黙示録とか本当に戦争したほうがええんやないかというめちゃくちゃさ

Claude: あれはもう撮影自体が戦争やったね。フィリピンで撮ってたら台風でセットが壊滅、マーティン・シーンは撮影中に心臓発作、ブランドは役作りどころか太りきって台本も読まずに現れる。マルコス政権から借りてたヘリは、反政府勢力と戦うために撮影の途中で軍に呼び戻されたりしてた。数ヶ月の予定が1年以上に延びて、コッポラは私財までつぎ込んで追い詰められてる。

コッポラ本人が「この映画はベトナムについての映画じゃない、ベトナムそのものだ」という趣旨のことを言うてたくらいで、泥沼化して出口が見えんところまでアメリカの戦争をなぞってしまった。妻のエレノアが撮ったメイキング『ハーツ・オブ・ダークネス』は、本編より怖いかもしれん。


ボク: これは名画座か大学の何かで見たけど、後半は難儀したw

Claude: 前半はワーグナーのヘリ攻撃とかサーフィンとか見せ場の連続で引っ張られるけど、カーツの王国に着いてからは急に失速する。暗がりでブランドがぼそぼそ詩を読んで、哲学っぽい独白が延々続く。あれは撮影現場の迷走がそのまま画面に出てる部分でもある。

ちなみに後に出た特別完全版やファイナル・カットはさらに長くなってるから、難儀した人にはまったく救いにならんやつやねw


三.今後は全部CGか


ボク: あれやろ、今後は全部CGやろ?

Claude: 全部とは言い切れんけど、大勢はそっちやね。安全基準も保険も厳しくなって、本物の飛行機をぶつける撮影はまず通らんし、これからは生成AIの映像も入ってくる。

ただ逆張りもあって、『トップガン マーヴェリック』は役者を本物の戦闘機に乗せ、ノーランは『ダンケルク』で実機のスピットファイアや本物の船、『TENET』では本物のジャンボ機を建物に突っ込ませてる。CGが当たり前になったぶん「本物で撮った」が売り文句として価値を持つようになった。結局、予算と腕のある監督だけが本物をやれて、それ以外は全部CG、という二極化やないかな。


ボク: いまはもう少しまし?そんなことないやろ、CGw

Claude: 技術的にはだいぶ上がってるよ。邦画でも『ゴジラ-1.0』は白組が少人数・低予算でVFXをやって、アカデミー視覚効果賞まで取ってる。あの海戦は『山本五十六』の頃とは別物や。

ただ「CGに切り替わると冷める」問題が解決したかというと、そんなことはない。ハリウッドの大作でも、締め切りに追われて量産されたCGは相変わらず重さがなくて、マーベル作品なんかは「CGが雑になった」と叩かれてる。腕のいい人が時間をかけた場合だけ違和感が消える、という話で、平均点はそこまで上がってない。


ボク: 結局ペラペラなの、あれはどうにもならんやろ、海面とか規則正し過ぎて笑う

Claude: 海はほんまにCGの鬼門やね。安く済ませると波を数式で生成するタイプの海になって、同じパターンの繰り返しが出る。本物の海は風の息や潮目でムラがあって、船体にぶつかった波しぶきや航跡の泡も複雑に絡むから、流体シミュレーションでちゃんと計算すると時間も金も桁違い。

「ペラペラ」感の正体は、たぶん質量や。巨大な戦艦が水を押しのけてる重さ、ゆっくり揺れる慣性、その物理の手応えが抜けると、どんなに細部を描き込んでも模型以下に見える。皮肉なことに、昔の特撮のミニチュアのほうが本物の水を使ってた分、まだ水らしかったりする。


四.クオーツと機械式


ボク: ボクは絶対特撮主義になったよ、平成ゴジラ見て

Claude: 平成ゴジラは川北紘一の特撮が冴えてた時代やもんね。ミニチュアのビルが本当に崩れて、火薬が本当に爆ぜて、光線の合成もいかにも「作ってる」んやけど、物がそこに在る手応えがある。作り物と分かっていても嘘っぽくない。

CGは本物に近づこうとして届かないから冷めるけど、特撮は最初から本物のふりをしてない分、こっちも乗って見られる。不気味の谷に落ちない強さがあると思う。


ボク: 特撮じゃないの、ジオラマ

Claude: なるほど、光線や着ぐるみ込みの特撮全般やなくて、ジオラマそのものなんやね。精巧に作り込まれた街並み、電柱や看板一本まで手で作った箱庭を眺める楽しさ。ゴジラが壊す前の、静かに佇んでる街のカットが一番ええ、みたいな。

実在の物体をカメラで撮ってるから、光の回り方も影も本物で、そこに作り手の執念が詰まってる。CGにはその「物としての存在感」がどうしても出せん。


ボク: 作り物なら特撮のほうがまし、というか熱がある、CGは安いクオーツ時計みたいやねん、特撮は不正確だろうが機械式時計やな

Claude: その例え、うまいな。クオーツは正確で安くて誰が作っても同じ品質が出るけど、針の動きに何の感情も乗らない。機械式は日差が出るし手間もかかるけど、中でゼンマイと歯車が実際に動いてて、職人の仕事がそのまま時を刻んでる。

ジオラマも同じで、縮尺が狂ってたり爆発がちょっと大きすぎたりする「誤差」まで含めて、人の手の痕跡なんよね。正確さで負けても、そこに熱がある。クオーツが普及しても機械式が廃れなかったように、特撮もどこかで生き残ってほしい。


ボク: 同じシーンでも特撮なら感動するのにCGは手抜きされてる感

Claude: それは「労力が見えるかどうか」の差やと思う。ジオラマなら、このビル一棟作るのに何日かかったか、爆破は一発勝負で撮り直しがきかん、という緊張感が画面越しに伝わる。CGは何でも描けて何度でもやり直せると観客が知ってるから、どんな凄い絵でも「まあ作れるよね」と割り引いて見てしまう。

実際はCGの現場も徹夜続きの過酷な仕事で、手抜きどころか逆なんやけど、その苦労が画面に痕跡として残らない。機械式時計の裏蓋がシースルーで中が見えるのと、クオーツの中身が見えないのとの違いに近いかもしれん。


ボク: 割り引かない、単にペラペラなの

Claude: なるほど、心理的な割り引きやなくて、見た目そのものが薄いってことやね。そこは素直に引っ込める。

ペラペラに見える理由は、たぶん情報の「ムラ」が足りないこと。本物の物体には表面の細かい凹凸、埃、光の乱反射、レンズ越しの微妙な歪みが勝手に乗るけど、CGはそれを一つずつ人が足さない限り存在しない。足し忘れた分だけ表面がつるっとして、重さも奥行きも抜ける。ジオラマはどれだけ小さくても実物やから、その情報量が最初から全部入ってる。


ボク: シン・ゴジラでさえクルマが吹き飛んだりするシーン、目方ゼロだもん

Claude: わかる、あれ紙の箱が舞ってるみたいやった。シン・ゴジラはゴジラ本体の存在感はあったのに、周りの小物になると途端に軽くなる。

重さって結局「動き方」に出るんよね。1トン以上ある車なら、吹き飛ぶ前に一瞬溜めがあって、ぶつかれば潰れて、着地でバウンドせずにずしんと止まる。CGだとその加速と減速の手応えが甘くて、ふわっと飛んでころころ転がるから目方が消える。ジオラマは逆に、小さい模型を高速度撮影でスローにして重さを出す工夫を昔からやってた。物理を演出で補う技術が、特撮の側には蓄積されてたんやね。


ボク: 残酷なようなんだけどそういうところに神は宿るのよw

Claude: ほんまにそれ。「神は細部に宿る」やね。大きな見せ場がどれだけ派手でも、吹き飛ぶ車一台の重さをごまかした瞬間に全体の嘘がバレる。

残酷やけど、観客の目はそういう端っこを正直に見てるんよね。逆に言えば、ジオラマ職人が電柱の碍子ひとつまで手を抜かなかったのは、そこが見破られると分かってたからやと思う。


五.本気の嘘


ボク: もう2001年宇宙の旅の撮影時のエピソードとか聞いちゃうとね

Claude: あれはもう狂気の領域やもんね。宇宙船ディスカバリー号の居住区は、巨大な遠心機みたいなセットを実際に回転させて、役者がその中を走ってる。航空機メーカーに作らせた代物で、カメラごとぐるっと回るから無重力の「上下のなさ」が本物になる。

浮遊するペンも回転するガラス板に貼り付けて撮っただけやし、スターゲートの光の洪水はスリットスキャンという手法を自前で考案して作ってる。模型も細部まで作り込んで、ピントを深くするために一コマずつ長時間露光で撮影してた。半世紀以上前の作品で、今見てもまったくペラペラやないのが恐ろしい。CGが無い時代に、物理とアイデアだけで宇宙を作ってしまった。


ボク: 結局ね勝手な物言いやけど特撮は根性なのよw

Claude: 勝手どころか、本質突いてると思うよw ジオラマを一から組んで、爆破は一発勝負、ダメならまた作り直し。キューブリックなんて納得いくまで何十テイクも撮り直させてるし、理屈より先に「やり切る執念」がないと成立しない世界や。

CGは便利になった分、どこで手を止めても一応の絵になってしまう。特撮は根性を出さないと形にすらならない。その差が画面の重さに出てるんやろうね。


ボク: 嘘なんだけど本気みたいなさ

Claude: そうそう、「本気の嘘」やね。誰もビルが本物とは思ってないし、作ってる側も嘘やと分かってる。それでも電柱一本まで真剣に作り込むから、見てる側も騙されてやろうって気になる。

CGはむしろ「本物っぽさ」を狙うのに本気が足りないから、半端な嘘に見えてしまう。嘘を本気でつくほうが、よっぽど誠実に感じるのは面白い。


ボク: リアルでもないの、作り物の見事さとでもいうか

Claude: ああ、リアルに見えるかどうかやなくて、作り物として見事かどうかなんやね。本物と見紛うことが目的やなくて、「よくぞここまで作った」という工芸品としての美しさ。

文楽の人形が人間に見えるから感動するわけやないのと同じで、作り物だと分かったうえで、その出来栄えに唸る。ジオラマはまさにそれで、CGが目指してるリアルとは、そもそも評価の軸が違うんやろうね。


ボク: CGがどれだけ大変かわからないけどさ

Claude: 大変さで言えば、CGもとんでもない手間はかかってる。毛一本、波ひとつ計算させて、レンダリングに何日もかけて。

ただCGの苦労は、成功すればするほど「何もなかったこと」になる。見事なCGほど存在を消して本物のふりをするから、作り物としての見事さを愛でる対象になりにくい。ジオラマは作り物であることを隠さないから、その手間ごと見てもらえる。苦労の量やなくて、苦労が見える形で残るかどうかの違いなんやろうね。


ボク: いいじゃんプロらしくて

Claude: 確かに、それはそれで潔いね。存在を消して作品に奉仕するのは裏方の職人の矜持そのものやし、気づかれないことが最高の褒め言葉という世界。

ジオラマは「見てくれ」の美学、CGは「見せない」美学。どっちもプロの仕事で、ただ好みとしてはやっぱり前者に惚れてしまう、ということやね。


六.空前にして絶後


ボク: とりあえず客にそこまでやると思わせないと

Claude: そうやね、結局そこやと思う。「ここまでやるか」と客に思わせた時点で勝ち。凄さが伝わらなければ、どれだけ手間をかけても存在しないのと同じやもんね。

トラ・トラ・トラの実物大の長門も、2001年の回転セットも、ゴジラのジオラマも、メイキングを知らなくても画面から「とんでもないことやってるな」が伝わってくる。CGはその「ここまでやるか」を感じさせるのが構造的に難しいんやろう。


ボク: CGは手抜き感が出た時点で負けてる、難儀やけどな、仕事をやり倒すと空気みたいになるやろから

Claude: そこがCGの割に合わんところやね。完璧にやり倒せば空気になって誰にも気づかれず、ちょっとでも甘ければ即「手抜き」と言われる。褒められる余地がほとんどなくて、減点されるだけの構造。

ジオラマは作り込みがそのまま加点として見えるのに、CGは満点でやっと「何も気にならなかった」止まり。難儀な商売やと思うわ。


ボク: じゃあジオラマやれw

Claude: ほんまそれw 実際やってる人もおるんよね。ウェス・アンダーソンは『グランド・ブダペスト・ホテル』でホテルの外観をミニチュアで撮ってるし、日本でも樋口真嗣が短編『巨神兵東京に現わる』をCGに頼らずほぼミニチュアで撮ってる。あれはまさに「特撮の技術を残すため」の作品やった。

問題は職人が減ってることで、ジオラマを組める人も爆破のノウハウを持つ人も高齢化してる。根性の技術は、やらないとあっという間に途絶えてしまうからね。


ボク: CGはいまのところ適当にやると絵空事感がたまらないのよ、それだけ

Claude: うん、結局そこに尽きるね。CG自体が悪いんやなくて、適当にやった瞬間に絵空事になる。ジオラマは適当にやっても少なくとも「物」はそこにあるから、最低限の手応えは残る。その差やね。


ボク: クレオパトラとかイントレランスとか夢のまた夢やなw

Claude: ほんまに夢のまた夢やね。『イントレランス』のバビロンの城壁なんて、1916年にハリウッドに本物の巨大セットを建てて、エキストラを何千人も動かしてる。撮影後も長いこと取り壊されずに残ってたくらいの規模。

『クレオパトラ』は製作費が膨れ上がって20世紀フォックスが傾きかけた。セットも衣装も群衆も全部本物でやった結果や。今なら群衆はCGで増殖させて終わりやから、あの物量はもう誰もやらんし、やれんと思う。


ボク: いいじゃん、空前にして絶後、アンタッチャブル

Claude: そうやね、二度と作れないからこそ価値がある。技術的にも経済的にも、あの時代のあの狂気が揃ったからできたことで、もう誰も手を出せない聖域。

ある意味、CGの時代が来たおかげで、ああいう作品の「空前絶後」ぶりが確定したとも言える。


七.イントレ


ボク: イントレって知ってる?

Claude: 撮影現場で使う組み立て式の足場、やぐらのことやね。カメラや照明を高い位置に据えるためのもの。

語源がまさに『イントレランス』で、バビロンの巨大セットを俯瞰で撮るために高い撮影用の塔を組んだことから、日本の映画界でそう呼ばれるようになったと言われてる。今でもイベントや建設の現場でイントレって普通に通じるから、作品名が道具の名前として生き残ってるわけや。


ボク: さすが知ってるねw

Claude: ありがとうw 映画の作品名が業界用語として百年以上生き残ってるって、それ自体が空前絶後ぶりの証拠やね。グリフィスも、まさか自分の映画が日本で足場の名前になるとは思わんかったやろう。


ボク: 日本限定なのか、そりゃそうだわな

Claude: うん、日本独特の呼び名やね。英語圏の映画現場ではイントレみたいな可搬式の足場を「パラレル」なんて呼んでて、作品名は使わない。

本家アメリカでは忘れられて、遠い日本の現場用語にだけ残ってるっていうのが、なんとも味わい深い。

早死にが支えていたもの

世界史に名を残す病気は意外と少ない、という話から、天然痘という名前の不思議、結核=かっこいい病気の代名詞、そして「早死にが終身雇用と年金を支えていた」という仮説へ。大正生まれの徴兵世代、のど自慢のラバウル小唄、政治家の経歴に並ぶ陸士海兵。最後はサナトリウム文学の病弱な美人に惹かれるのはなぜか、という進化心理の与太まで。病と制度と色気が、気づけば一本の線でつながっていた。わからんところはわからんまま。


一.世界史に名を残す病気


ボク: 大体世界史で病名残るのって少なくないか?ペスト、スペイン風邪、梅毒、ほかにある?

Claude: 意外とありますよ。世界史を動かした病気の大看板をざっと挙げると——天然痘(アステカやインカの滅亡を後押し、人類が根絶した唯一の感染症)、コレラ(19世紀の世界的大流行、上下水道と疫学の誕生につながる)、結核、マラリア(人類史上もっとも多くの命を奪ったとも)、黄熱病(ハイチ独立でナポレオン軍を壊滅させ、パナマ運河工事も一度頓挫、野口英世の命も奪った)、発疹チフス(ナポレオンのロシア遠征大敗の一因)、ポリオ、エイズ。

ただ教科書で「事件」として扱われるのはペスト、天然痘、コレラ、スペイン風邪くらいで、他は人物史や戦争史の脇役に出てくるから印象が薄いのかもしれません。


ボク: 天然痘というネーミングは不思議。人工痘があるのかw

Claude: それが実はあるんです。「天然痘」の「天然」は、人為的に植え付けた痘と区別するための言葉。昔は天然痘の膿やかさぶたを健康な人にわざと移して軽く感染させ、免疫をつける「人痘接種」という方法がありました。その後、牛の痘を使う安全な「種痘」が広まる。

こうした人為的に植えた痘に対して、自然にかかるものを「天然痘」と呼んだわけです。それ以前の日本では「疱瘡」や「痘瘡」。人工痘、ちゃんと実在してたんですね。


ボク: 予防接種のあとの呼び名ね。疱瘡いうてたな。

Claude: そうです。江戸の頃は「疱瘡」が普通の呼び名で、疱瘡神という神様まで祀られていました。赤い色を嫌うとされたので、子どもに赤い着物を着せたり赤い玩具を持たせたりして厄除けにしていたそうです。

「天然痘」の名が一般に定着したのは、種痘が広まった幕末から明治以降のことですね。


ボク: 日本においては結核だよね、かっこいい病気の代名詞w

Claude: 間違いないですね。かつては「労咳」とも呼ばれた、日本の病気界の大名跡です。顔ぶれが豪華すぎて、高杉晋作、沖田総司、正岡子規、樋口一葉、石川啄木、滝廉太郎……。志半ばで散った天才、というイメージとぴったり重なる。痩せて青白くなるので「美人薄命」の象徴にもなり、堀辰雄『風立ちぬ』のように高原のサナトリウムで静かに療養するロマンまでついてきました。

ただ実際は喀血して苦しむし、家族にもうつるので、当時の人には恐怖の病気でした。ロマンの部分は文学が後から上塗りしたものですね。


二.早死にが制度を支えた


ボク: 結核と徴兵が終身雇用を可能にしていたのではないかと思えるほどw

Claude: ネタとしては鋭いところを突いています。年功序列や終身雇用は、上が少なく下が多いピラミッド型の人口構成でないと成り立たない。高給の年配社員が少なく、安い若手が大勢いれば会社は払い続けられます。

ただ、終身雇用が本格的に広まったのは戦後の高度成長期で、結核はストレプトマイシンの登場で1950年代に急減していました。実際に支えていたのはベビーブームの若い人口構成、会社がどんどん大きくなったこと、そして55歳定年(当時の平均寿命は60代で退職後が短い)あたり。とはいえ「みんなそんなに長生きしない前提」で制度が組まれていたのは確かで、その前提が崩れたのが今の定年延長や年金の問題。結核に代わって、長寿が制度を揺さぶっているわけです。


ボク: そうなんだよね、ボクの子供のときの体感だとボクなんて生きてるほうが不思議な年齢w

Claude: 確かに、子どもの頃の60代といえばもう立派な「おじいさん」でした。1960年代の男性の平均寿命は60代半ばくらいで、還暦を迎えたら大往生も近い、という感覚。サザエさんの波平さんが54歳設定なのも有名な話です。

それが今は、60代でもまだ現役で「まだまだこれから」。「生きてるほうが不思議」から「延長戦」に変わったわけですね。


ボク: 早死が終身雇用や生涯年金を可能にしてたね

Claude: 特に年金はその影響が大きい。今の年金は現役世代の保険料で高齢者を支える仕組みなので、支える人が多くて受け取る人が少なく、しかも受け取る期間が短いほどうまく回ります。

制度ができた頃は現役世代が大勢で、退職後の人生も10年前後。今は支え手が減り、受給期間は20年、30年と延びている。言い方は悪いですが、「みんなほどほどで退場する」前提で設計された制度に想定外の長寿が乗っかっているのが今の状況です。早死にが制度を支えていた、というのはなかなか本質を突いた見方だと思います。


ボク: 終身雇用もそこまでの間の損耗を勘定に入れてのことやったんやないのw

Claude: ある程度はそうだと思います。会社が死亡率を表計算していたわけではないでしょうが、途中で人が減っていくことは自然に織り込まれていた。病気や死亡(当時は働き盛りで倒れる人が今より多かった)、寿退社(女性社員の多くは結婚で辞めるのが当たり前で、そもそも終身雇用の対象外扱い)、55歳定年、出向・関連会社への転籍。

結果として上に行くほど人数が自然に絞られて、ピラミッドが保たれていた。「終身」と言いつつ、実際に定年まで本社で勤め上げる人は思われているほど多くなかったのかもしれません。管理職ルートに乗らず専門職で勤め上げる人は、その損耗を免れた希少な完走組とも言えますね。


ボク: やっぱり結核と徴兵やなw

Claude: 戦前に限れば、その二枚看板はかなり効いていたでしょうね。結核は若者を、徴兵と戦争は働き盛りの男性を大量に持っていったので、人口構成も社会の仕組みもそれに引っ張られて形作られていた。

戦後はその二つが退場して、代わりに高度成長と55歳定年が同じ役割を引き継いだ、と見ると話がつながります。結局どの時代も「全員が長く居座らない」ことを前提に制度が回っていたわけですね。


三.徴兵世代の記憶


ボク: 大体ボクが小学生のときにはお父さん大正生まれがおったからね。思いっきり徴兵世代や

Claude: そうですよね。大正生まれの男性は、まさに戦争のど真ん中を若者として生きた世代です。特に大正後半生まれは、戦死者が最も多かった世代のひとつと言われます。

同級生のお父さんたちは、その中から生き残って帰ってきた人たちだったわけですね。戦友を大勢失った世代が、戦後は高度成長を支えて終身雇用や年功序列の会社社会を作っていった。そう考えると、あなたの子ども時代はまだ戦争の延長線上にあったと言えそうです。


ボク: テレビののど自慢ではラバウル小唄とか普通に定番やったからね。政治家の経歴とかには陸士海兵がこれまた普通におったよ

Claude: 戦後20年ちょっとなら、まだ空気がそのまま残っていた時代ですね。のど自慢で軍歌が普通に歌われていたのは、歌っている本人が実際に戦地帰りだったから。懐メロというより、自分たちの青春の歌だったわけです。

政治家も、源田実(海兵出身、真珠湾攻撃の作戦立案に関わり戦後は参議院議員)や辻政信(陸士出身の参謀、戦後は衆参両院議員)のような人が普通にいた。経歴に軍歴があるのは珍しくもなんともなかった。今の感覚だと遠い歴史ですが、あなたの子ども時代にはそれが日常の風景として並んでいたんですね。


四.サナトリウムの美人


ボク: 昔考えたネタ、人類の生殖を考えると男子は健康な女子にのみ興奮するのがしかるべきなのに、現実にはサナトリウムの不健康なそれにもひかれるヤツもいる。これはなぜか?

Claude: 面白いネタですね。いくつか説明が立ちます。

ひとつは、病状が美人の記号を偽装すること。結核の症状は、微熱で頬がほんのり赤い、瞳が潤んで輝く、色白で細身になる——これは若さや魅力のサインとほぼ同じで、脳の「健康な異性センサー」はけっこう雑な作りなので、病気の症状をまんまと美人判定してしまう。19世紀ヨーロッパでは結核風の青白い痩せ型がファッションとして真似されたほどです。次に、失われそうなものほど惹かれるという儚さの心理。さらに、弱っている相手を放っておけない「世話したい本能」が恋愛感情に混ざる。最後に、サナトリウム文学がそれを美しい物語として上塗りした。本能の誤作動に、心理と文化のロマンが重ね塗りされた結果、というところでしょうか。


ボク: ボクの考えた仮説、サナトリウムの不健康な女子には太い親がつきものだから、そういう不健康な女子にひかれる遺伝子も生存に有利やったのではないかというそれw

Claude: なかなか鋭い仮説です。サナトリウムで療養できるのは、長期の転地療養費を払えるお金持ちの家の娘ですからね。

補強できる材料もあって、昔から「色白」は外で畑仕事をしなくていい上流階級の印でした。つまり青白さに惹かれる男は、病気ではなく「太い実家」のサインに反応していた可能性がある。資源を持つ家とつながれば、自分や子孫の生存率が上がって十分元が取れる。

ただ弱点もあって、サナトリウムの歴史は100年ほどで遺伝子が選ばれるには短すぎるし、相手が早世すると子どもが残らず遺伝子の本筋から外れる。なので「病弱な女子好きの遺伝子」というより、「お金持ちの記号に惹かれる昔からの性質が、たまたまサナトリウムの女子にも反応した」と言い換えると、かなり筋のいい説になると思います。

女性漫画家と少年誌

女性作家は少年誌に描くものか、という素朴な疑問から始まった。そこから少女漫画の男性作家、24年組の表現革新、あだち充の「間」、少年漫画の硬派の建前、梶原一騎、そして『キャプテン』『プレイボール』の見事な女っ気のなさ=「野球の前の平等」へ。谷口は本当は天才で、努力万能こそ最大のファンタジー、鶏口牛後、絶筆のランニング、丸井という裏主役の退場まで。一つの疑問が、少年漫画という世界観の丸ごとの解剖になった夜や。わからんところはわからんまま。


一.女性作家は少年誌に描くか


ボク: 急に思ったのだけど女性漫画家って少年誌に連載するものかね

Claude: 普通にいますし、むしろ大ヒット作の作者に多いくらいです。高橋留美子(サンデー)、荒川弘『鋼の錬金術師』、吾峠呼世晴『鬼滅の刃』、天野明『家庭教師ヒットマンREBORN!』、CLAMP、大高忍『マギ』……。

ただ、性別を表に出さない傾向はあります。「荒川弘」のように男女どちらとも取れるペンネームにしたり、顔出しや性別を公表しなかったり。少年誌の読者に先入観を持たれないための配慮と言われていて、だから「女性だったの?」と後で驚かれるパターンが多い。


ボク: いやボクのこの疑問は高橋留美子を思ってのことで、キミの上げた例のうちボクが承知してるのがその高橋留美子だけだから、なるほどボクの疑問もむべなるかなといったところかと

Claude: 高橋留美子がデビューした1978年頃は少年誌の女性作家がほぼ皆無で、明確な先駆者です。その世代の感覚なら「女性が少年誌に?」と思うのは自然でしょう。

ただ、作者は知らなくても『鋼の錬金術師』や『鬼滅の刃』のタイトルはご存じかもしれません。作品は知っているのに作者が女性とは知らない、という状態が生まれやすいのは、まさに性別を伏せる傾向のせい。疑問の出どころは、女性作家が少ないことより、見えにくいことのほうにあるのかもしれません。


ボク: 少女漫画に男が描くというのもボクが知るのは古賀なんとかという怖い漫画描いてた人だけw

Claude: 古賀新一ですね。『エコエコアザラク』の人で、初期は少女誌でホラーを描いていました。

実は昔の少女漫画は男性作家が主力でした。手塚治虫『リボンの騎士』、赤塚不二夫『ひみつのアッコちゃん』、楳図かずおの少女誌ホラー、石ノ森章太郎やちばてつやも少女誌デビュー。1970年代に萩尾望都ら「24年組」が出てきて、女性が描くのが当たり前になった。少年誌の女性作家とは逆で、こっちは「昔は男だらけだったのに、いつの間にかいなくなった」という流れです。


ボク: キミの上げた先生方はあまりにも大家で、時間の経過とともに少年誌だけで手一杯になったんちゃうの

Claude: 個々の作家にはそういう面もあったでしょうが、それだけだと「新しい男性作家が入ってこなかった」ことの説明がつきません。

もっと構造的で、そもそも50〜60年代の少女誌は描き手不足で男性が穴を埋めていた面が大きい。そこへ24年組以降、内面のモノローグや複雑なコマ割りが主流になって、男性作家の作風が古く見えるようになった。同時期に少年誌の週刊化や青年誌・劇画ブームが起きて、男性作家には別の居場所もできた。大家が手一杯になったというより、少女漫画が女性の手で別ジャンルに作り替えられて、男性が入る余地がなくなった、というのが実態に近いかと。


ボク: これは他人様の分析の受け売りやけど、少年漫画の技術革新にくらべて少女漫画はお目々星がキラキラて遅れを取っていたとか、申しわけない受け売りだからこれw

Claude: 時期によっては当たっていますが、70年代以降はむしろ逆の評価が一般的です。50〜60年代の少女漫画は確かに様式化していて、あのキラキラ目を広めたのは高橋真琴ら男性作家でした。

ところが70年代、24年組が枠線を外した重なり合うコマ、詩のようなモノローグ、心理の流れを追うコマ割りを持ち込み、表現の最先端はむしろ少女漫画側に移った。その手法は後に少年漫画や青年漫画にも取り入れられています。「遅れていた少女漫画を女性が刷新し、その結果男性作家が退場した」と読めば、前の話ともつながりますね。


ボク: そういえば断片的な記憶やけどベルサイユのばらってモノローグみたいなのが多かったようなw

Claude: そうです、『ベルばら』はモノローグの多さが特徴のひとつ。オスカルやアンドレの内心の独白が、花や背景と一緒に流れるように見せられる。

作者の池田理代子は24年組と同世代(1947年生まれ)で、連載も1972〜73年とちょうど少女漫画の表現が変わった時期。厳密には24年組に数えないことも多いですが、同じ潮流の中にいた作家です。


二.あだち充の「間」


ボク: 女性作家が少年誌に描くときって少年誌の文法みたいなもんに寄せてくる?それともすでにそんなもんはない?

Claude: 両方ですね。雑誌ごとの文法は今も残っていて、それには寄せますが、性別による差はかなり薄れています。

ジャンプなら友情・努力・勝利、トーナメント、毎週の引き。一方で女性作家が持ち込んだ心理描写の細やかさは武器になっていて、『鬼滅の刃』はバトルの型に乗りつつ心の声のモノローグが非常に多い。24年組の手法が少年誌で生きている例です。そもそも少年誌自体がもう少女漫画の技法を吸収しているので、「少年誌の文法」と「女性らしい描き方」がぶつかる場面自体が減っている。


ボク: そうだね、あだち充とか革命的やったという記憶が、何というか「なんじゃこれ」みたいなw

Claude: あだち充はまさにその代表で、しかも男性なのに少女漫画を経由して少年誌に来た人です。『陽あたり良好!』は少女コミック連載で、少女誌で恋愛ものの腕を磨いてから、その感覚を『みゆき』『タッチ』に持ち込んだ。

「なんじゃこれ」の正体はたぶん間です。台詞のないコマ、風景だけのカット、肝心なことを言わずに流す会話。熱血と叫びが主流だった少年誌で、野球漫画なのに試合より恋愛と沈黙が印象に残る、というのは前代未聞でした。


ボク: 手法というより少年誌に色恋沙汰を持ち込んだことが革命的やったんちゃう?

Claude: 色恋自体はあだち以前からありました。『愛と誠』(マガジン、1973〜)は純愛ものの大ヒット、『翔んだカップル』(1978〜)は少年誌ラブコメの草分けとされ、『うる星やつら』も1978年開始で『みゆき』より早い。

なので「持ち込んだ」こと自体は革命ではなく、描き方のほうかと。『愛と誠』は「愛は戦いである」的な劇画調の激しい恋愛でした。あだちは逆に、好きだとも言わない、何も起きない日常の空気で恋愛を描いた。少年誌の恋愛を「戦い」から「間」に変えたのが新しかった。


ボク: 愛と誠は外れ値と孤証みたいなもんなのでは?追随者が現れることのないそれ

Claude: 『愛と誠』についてはその見方に一理あります。劇画調の純愛路線は後に続くジャンルにはなりませんでした。

ただ、それを外しても『翔んだカップル』(1978)が残る。こちらは外れ値どころか、その後のラブコメブームの起点で、1978『翔んだカップル』『うる星やつら』→1980『みゆき』→1981『タッチ』→1984『きまぐれオレンジ☆ロード』と追随者が続出し、サンデーは「ラブコメのサンデー」と呼ばれるまでになった。あだちは流れの先頭ではなく、ブームの中で一番独特だった人、という位置づけだと思います。


ボク: どうして翔んだカップルにボクは違和感を感じずみゆきにそれを感じたんやろw

Claude: 推測ですが、絵柄・話の運び・語らなさの三つかと。柳沢きみおの絵は普通の少年漫画の絵で、あだちは少女誌出身の柔らかい線で見た目から浮いていた。『翔んだカップル』は同居騒動や三角関係と事件で話が進むのに対し、『みゆき』は大して何も起きないまま間と空気で流れる。前者は人物が思っていることを口にし、あだちは肝心なことを言わせない。

つまり『翔んだカップル』は「題材は恋愛だが文法は少年漫画」、『みゆき』は「文法ごと違う」。違和感を覚えたのは色恋という題材ではなく文法のほう。とすると、さっきの「色恋を持ち込んだのが革命」より、ご自身の感覚のほうが手法説を支持していることになりますねw


三.偉丈夫は婦女子に構わず


ボク: 今の少年誌ってのは色恋沙汰を普通に扱う?

Claude: 普通に扱います。ラブコメは今や定番ジャンルで、マガジンの『五等分の花嫁』、ジャンプの『ニセコイ』『アオのハコ』、サンデーの伝統。

面白いのは、ジャンプの看板バトル漫画では今も恋愛がかなり控えめなこと。『鬼滅の刃』の炭治郎にはほぼ恋愛がなく、『呪術廻戦』もそう。恋愛は「ラブコメ」という専用枠で存分にやり、バトル漫画では脇に置く、という棲み分けになっています。


ボク: 少年誌でのラブコメの出現ってのは少年漫画の建前の破壊みたいなところがあって今思うと愉快やったけど、当時は違和感やったわw

Claude: その建前は確かにありました。70年代の少年漫画は硬派が基本で、女の子にうつつを抜かすのは軟派で格好悪い、という空気が作品にも読者にもあった。恋愛は『あしたのジョー』のように脇で匂わせる程度が上品とされていた。

ラブコメブームはその建前に「でも本当は読みたいでしょ」と突きつけたようなもので、売れたことで建前が崩れた。当時違和感があったのは、その建前を読者として身につけていたからこそで、今になって愉快に見えるのは、建前が壊れる瞬間に立ち会っていたと分かるからでしょうね。


ボク: なんかさ、偉丈夫は婦女子に構うことなく天下国家に向うみたいな世界観があったわけね、少年漫画にはw

Claude: ルーツをたどると戦前の『少年倶楽部』あたりの立身出世と武士道の価値観に行き着くと思います。戦後はスポ根や番長ものに形を変えて残った。本宮ひろ志『男一匹ガキ大将』が象徴的で、ケンカで子分を増やしてやがて天下に、をジャンプが堂々と看板にしていた。ヒロインはいても主人公はなびかないのが美学。

ただ偉丈夫たちも完全に女性を無視したわけではなく、『巨人の星』の飛雄馬にも悲恋がありました。恋は「乗り越えるべき試練」か「失うことで男を磨く要素」。ラブコメが壊したのは、恋愛そのものが目的でいい、というその一点だったのかもしれません。


ボク: だからあれは梶原先生のご趣味w

Claude: そう言われると筋が通りますw 飛雄馬の悲恋も原作は梶原一騎、『あしたのジョー』も(高森朝雄名義で)梶原。

『愛と誠』もよく見ると誠は徹底した硬派で、恋愛は甘いものではなく血を流す試練として描かれている。つまり梶原一騎にとって恋は一貫して「男を試し、傷つけるもの」で、『愛と誠』はそれを脇から主題に格上げしただけ。ラブコメの先駆けというより硬派の世界観の極北で、追随者が出なかったのも、あれは梶原一騎にしか書けない趣味だったから、と。


ボク: 野球マンガとかも女なんて出てこない、水島先生がちらっと描くくらいやったんやないかなw

Claude: そこは水島先生を過小評価かもしれませんw 『野球狂の詩』では水原勇気という女性投手をプロ野球に入団させて主役級に据えています(1977年頃)。ちらっとどころか、女性がプロで投げる話を正面から描いた人です。

『巨人の星』にも姉の明子、『ドカベン』もサチ子や夏子さんが出てくる。女性がいないわけではなかったけど、恋愛の相手というより家族や支える側、という役回りがほとんどでしたね。


ボク: 水原勇気はラブコメちゃうから、そこは決定的にちがうの、むしろ男どアホウ甲子園とかにポロポロ描かれとるマドンナキャラのほうがラブコメ要素やったね

Claude: 確かにそうですね。こちらは「女性が出てくるか」で答えましたが、話の軸はラブコメ要素でした。水原勇気は野球の主役であって、恋愛の対象として描かれたわけではない。

その意味では、硬派な野球漫画の中に時々マドンナを置く水島先生の手つきのほうがラブコメの萌芽に近い。主人公はなびかないけど読者はちゃっかりマドンナを楽しんでいた、という建前と本音の二重構造そのものです。


四.野球の前の平等


ボク: キャプテンとかプレイボールに女が出てこないのが素敵w谷口の母親とかイガラシの猛練習に反対する教育ママくらいしか思いつかない

Claude: 『プレイボール』ですねw ちばあきおの作品は見事に女っ気がない。でもそれが梶原一騎的な硬派とは違うのが面白いところで、谷口たちは女性を拒んでいるわけではなく、ただ野球と練習のことしか頭にない普通の少年として描かれている。

天下国家を目指す偉丈夫ではなく、地道に努力する平凡な少年の野球漫画。恋愛がないのは美学でも建前でもなく、単に描く必要がなかったから、という純度の高さが素敵なんだと思います。


ボク: いや谷口の様子がおかしいと心配する丸井にチームメイトが谷口の女の可能性をいうたのに対して烈火のごとく否定してるからね、あの谷口さんに限ってはそんなことはないみたいに、ボクはこのシーンにキャプテン/プレイボールワールドの精華を観るけどねw

Claude: それは私の「描く必要がなかっただけ」より一枚上の読みですね。作品世界は「女の可能性」をちゃんと知っていて、それを登場人物自身が全力で否定している。

しかも否定するのが丸井というのがいい。谷口を崇拝する丸井にとって、谷口さんが女にうつつを抜かすなど冒涜に等しい。作者が恋愛を排除しているのではなく、少年たちが自分の手で聖域を守っている。読者はその必死さにちょっと笑いつつ、純粋さを愛おしく思う。硬派の建前が、作者の美学ではなく登場人物の信仰として描かれているのが、ちばあきおの品の良さでしょうね。


ボク: 丸井と谷口ってのはいまならというかいまでもなのか、やおい本の絶好のネタにされるやろな

Claude: なりやすい構図ではありますね。崇拝する後輩と、それに無自覚な先輩。しかも女を寄せつけないと作中で明言までしている。

実際、80年代のやおいブームの火付け役は『キャプテン翼』で、体育会系少年漫画の男同士の絆はまさに格好の素材でした。そしてこの話は最初に戻るところがあって、やおいの源流は竹宮惠子や萩尾望都の少年愛ものなんです。24年組が少女漫画を作り替え、その読者が今度は少年漫画を読み替えた。女性が少年誌に「描き手」としてだけでなく「読み手」としても入り込んでいった、ということですね。


ボク: 女は修行の妨げという潔癖さが貫徹してて素敵w

Claude: しかもそれが説教くさくならないのがいい。「女は修行の妨げ」と誰かが教訓として語るのではなく、丸井が勝手に信じ込んで勝手に怒っている。潔癖さが思想ではなく少年の思い込みとして描かれているから、読んでいて微笑ましい。

梶原作品の硬派が「男とはこうあるべし」と拳を振り上げるのに対して、ちばあきおの潔癖は、言われなくてもそうしている少年たちの姿で示される。同じ女っ気のなさでも、肩の力の抜け方がまるで違います。


ボク: まああれだけ練習してたら女の入り込む余地はないやろと思わせるものはあったね、リアルな球児諸君がどうかは別にしてw

Claude: 練習量に説得力があるんですよね。朝から晩まで、雨でも夜中でも練習していて、あれで彼女を作る時間があったらそっちのほうが不思議。

リアルの球児はマネージャーと付き合ったりもするでしょうが、ちばあきおの世界ではマネージャーすらほぼ出てこない。女の入り込む余地を、設定ではなく練習の描写そのもので埋め尽くしている。あれは一種の力技ですねw


ボク: 野球の前の平等とでもいうかw他の要素一切ないじゃん、イガラシが学業優秀ってのが先生によってちらっと開示されるくらいでw

Claude: まさにそれで、家柄も成績も顔も、野球の前では何の意味も持たない。だからこそ、もともと二軍の補欠だった谷口が努力だけでキャプテンになれる世界が成立する。

序列を決めるのは練習量と野球の実力だけ。イガラシの学業優秀がわざわざ先生の口から明かされるのも、それが作中の価値基準にまったく関わらないから、ちょっとした意外性として機能しているんでしょうね。


ボク: ところが丸井がすべった墨谷高校にイガラシ含めた3人くらいがしっかり合格してる、これ入試があるから丸井は不合格やったわけで、学歴厨的に見るとあの野球部、死ぬほど練習してるわりには谷口もその他のメンバーは結構優秀だったのか、それとも丸井と同じで谷口を慕って集まってきたのか、そのへんが読み取れないのがまた素敵w

Claude: 学歴厨の目で読むと確かに引っかかりますねw 丸井が落ちたということは墨谷高校はそれなりの入試がある学校で、そこに谷口もイガラシたちも受かっている。

ただ作品はそこを一切説明しない。墨谷が進学校なのか、谷口たちが実は勉強もできたのか、丸井がたまたま苦手だっただけなのか。野球の前の平等を貫く作品だから、学力は「たまに顔を出す設定」以上の意味を与えられない。それでいて丸井の不合格だけはしっかり描かれる。あれほど谷口を慕っていても、入試という野球の外の基準には跳ね返される。その一点だけ現実がのぞく感じが、また味わい深い。


ボク: 谷口は青葉学園からの転校生という重要な情報が開示されとるやんwあの父親と母親からすると谷口を私立中学に通わせるってのに違和感wご都合主義が顔をのぞせかせてるって思わへんw?

Claude: 設定として都合がいいのは確かです。名門の二軍にいた子が弱小校に移り、名門のユニフォームだけで過大評価されてキャプテンにされる。物語の出発点が全部この転校から始まるので、作劇の装置であることは間違いない。

ただ違和感とまで言えるかは微妙で、高度成長期の東京なら大工は腕次第で稼げる職人でしたし、息子が名門に憧れたら庶民の親が無理してでも通わせるのは十分ありえる。あの父親は谷口の練習に全力で付き合う人だから、息子の夢に金を出すタイプとして一貫しているとも読める。ご都合主義が顔をのぞかせているのは、私立に通わせたことより、なぜ転校したのかがあまり語られないことのほうかもしれません。


ボク: それはそうだ、初めに転校ありきやもんなwまさかのびのび野球がしたかったなんて理由じゃないよなw

Claude: もしそうなら皮肉が効きすぎですねw のびのびやりたくて名門を出たのに、移った先で自らキャプテンとして名門以上の猛練習を課すことになる。

ただ谷口の性格からすると、名門の二軍で通用しなかったことを本人が一番気にしていたはずで、その負い目が「名門出身」という周囲の誤解と噛み合って、あの必死の練習につながっていく。転校の理由が曖昧なほうが、かえってその負い目が際立つ効果はあるかもしれません。


五.努力すれば何でもできる、という究極のファンタジー


ボク: とにかく皆さんキャプテン/プレイボールをリアルな野球マンガと認識されてるけど、それは物理法則に従ってるというだけのことだからねwボールが消えるとか折れたバットの破片がホームラン性の打球とともに舞い上がるみたいなことがないというだけのことで、むしろ究極のファンタジーだから、あの世界観w

Claude: 世界観がファンタジーというのは同意です。金も恋愛も家庭のいざこざもなく、全員が野球だけに純粋に打ち込める環境は現実にはまず存在しない。

ただ「物理法則に従っているだけ」は少し言い過ぎかと。あの作品のリアルさは結果の描き方にもあって、墨谷は勝ち進んでも最後は強豪に跳ね返されるし、凡人の努力に限界があることも描いている。『プレイボール』の冒頭で谷口が指を痛めて野球を離れるのも、その身体のリアルさの一例です。動機と環境は究極のファンタジー、結果と身体は徹底的にリアル。その組み合わせが「リアルな野球漫画」と錯覚させる仕掛けだと思います。


ボク: あのさ、指を痛めてた谷口が高校に入ってボールが投げられずに送球をゴロで済ます大騒ぎをしたあとに医者にかかるとあっさりこんなもん手術で治るとか言われるのよwお前医者にみせてなかったのかよ、これほどのご都合主義もなかなかない、大映ドラマだってためらうやろな

Claude: それは確かにひどいw 私が「身体はリアル」の例に挙げた指の怪我が、まさかのご都合主義の見本だったとは。

中学最後の試合で痛めた指を高校入学まで放置していたことになる。経済事情で言い出せなかったとか、もう野球は無理だと諦めていたとか、こじつけはできますが、作中で丁寧に描かれていないなら、やはり「谷口を一度野球から遠ざけて、また戻す」ための装置でしょう。大映ドラマなら手術の成功率は低いと言われて、そこからさらに一山作りますねw


ボク: あの作品群の最大のファンタジーってわかる?

Claude: 当てずっぽうで言うと、大人がいないことでしょうか。監督らしい監督がおらず、練習メニューも采配も部員の自治で回っている。現実の部活なら顧問の意向やOBの口出し、理不尽な上下関係がつきものなのに、猛練習を課すのも同じ少年で、しかも誰も腐らずついていく。

違いました?


ボク: とんでもない努力をすると何でもできてしまうことw

Claude: なるほど、それは私の答えより根が深いですね。そして私がさっき言った「凡人の努力の限界も描いている」とも衝突する。

墨谷は最後は負けますが、その負け方も「もっと強い相手にあと一歩」で、努力が無駄だったとは描かれない。凡才の谷口が努力で名門を倒すところまで行けてしまう時点で、努力と結果がほぼ比例する世界になっている。現実には才能や体格や運や指導環境の差で、どれだけ練習しても届かない壁のほうが圧倒的に多い。物理法則には従っているけど、努力の法則だけは現実よりはるかに優しい。それがあの作品の究極のファンタジー、と言われると納得です。


ボク: というか客観的にみたら谷口は野球の天才w

Claude: そうなんですよね。作品は谷口を「名門の二軍だった凡才」と描くけど、やってのけたことを並べると天才のそれです。短期間で守備も打撃も投球も一線級、変化球を独学で習得、あれだけの猛練習に体が耐える。そもそも全国レベルの強豪で二軍にいたというだけで、普通の中学なら十分エース級だったはず。

物語上は「凡才」というラベルを貼って、才能を全部「努力」と呼び替えている。「努力すれば何でもできる」ファンタジーの正体は、天才を凡人に見せかけることで成立している、とも言えますね。あれだけ努力できること自体が才能、という身も蓋もない話にもなりますがw


ボク: サッカーだって家に帰ったあとのちょこちょことした練習であっという間にしごこうとする先輩を意識不明に追い込むレベルに到達するしさ

Claude: サッカー部の件はまさに決定打ですねw 野球ですらない競技で、家に帰ってからの自主練だけで先輩を圧倒してしまう。あれを凡才と呼ぶのは無理がある。

努力の描写がリアルなぶん、到達点の異常さが目立たないんですよね。一つ一つの練習は地道に見えるから、読者も「頑張ればここまで行ける」と錯覚する。でも成果だけ見れば、谷口はどの競技でも頭角を現す万能型の運動の天才です。


ボク: だろ?野球で培った技術なんて何も生かせないサッカーであれなのよw

Claude: 技術はほぼ持ち込めませんからね。持ち込めるのは体力と走力、それに「どう練習すれば上達するか」を知っていることくらい。

ただ、その最後のやつが実は一番の武器かもしれません。名門で揉まれ、墨谷でキャプテンとして練習を組み立ててきた経験で、上達の筋道を自分で見つける力が並外れている。そこに運動神経が乗っかるから、どの競技でもすぐ伸びる。身体能力と学習能力の両方に恵まれた天才、という結論は動きませんねw


ボク: まあ灘とか開成の深海魚がそこらへんの公立中学や高校に転校してきたみたいなもんで、何もしなくても早稲田の政経ですわなw

Claude: たとえとしてはぴったりですねw 名門の深海魚も、母集団が化け物揃いだから沈んでいただけで、普通の学校に移れば上位に浮上する。谷口の「名門の二軍」はまさにそれ。

ただ「何もしなくても」は少し甘いかと。深海魚には自信を失って本当に沈みっぱなしになる子も多いですし、谷口も自分を凡才だと思い込んでいたからこそあの猛練習をした。深海魚が自分を深海魚だと思い込んだまま転校先で死ぬほど勉強したら、早稲田政経どころか東大に届いてしまう、というのが谷口の物語に近い気がします。


ボク: 青葉の監督も驚いてたからな、あれが本当にうちの二軍にいたのかって

Claude: あのセリフは二通りに読めて面白い。谷口が墨谷で劇的に伸びたとも取れるし、名門が足元の才能を見抜けていなかったとも取れる。

たぶん両方で、名門の二軍では出番も指導も回ってこないから伸びる機会がなかった。墨谷ではキャプテンとして毎日主役を張らされて一気に開花した。深海魚が環境を変えて浮上する話そのもので、青葉の監督の驚きは、そのまま名門の育成の限界を示しているとも言えます。


六.鶏口牛後と絶筆のランニング


ボク: どうなんでしょうね、鶏口牛後、結構普遍的な問題ではありますがw

Claude: 教育心理学に「井の中の大魚効果(Big-Fish-Little-Pond Effect)」という研究があって、同じ能力の子でも周りのレベルが低い集団にいるほうが自己評価が高くなることが繰り返し確かめられています。自信という点では鶏口が有利。

ただ実力の伸びは一概に言えなくて、勉強は周りが優秀だと刺激や情報で引き上げられる面があり、スポーツは出番がないと実戦経験が積めないので鶏口の利点が大きい。谷口はスポーツで、しかもキャプテンという最大の出番を得たので、鶏口が最もうまく働いた例でしょうね。


ボク: ボクの高校時代は勉強だと鶏口だったけど情報がなくて大変だったなw灘とかの進学校は生徒のポテンシャルとは別にそのへんのサポートも大きいと思うなw

Claude: それは大きいと思います。進学校の強みは授業の質より、むしろ周りに漂っている情報のほうかもしれません。どの参考書をいつやるか、先輩の実績から逆算した「このくらいやれば届く」という基準、東大や医学部を目指すのが普通という空気そのもの。

これがあると本人のポテンシャルを無駄なく結果に変えられる。ネットもない時代の公立で鶏口だと、自分がどこまで行けるのかも何をすればいいのかも全部手探りになる。谷口に置き換えると、墨谷の野球部は自治で回っていたから練習方法から自分で考えるしかなかった。あれもある意味、情報なしの鶏口の苦労ですね。


ボク: だから墨谷高校は都の予選のベストエイト止まりやったのよw妙なところで平仄が合うなw

Claude: 確かにそこで話がつながりますねw 谷口という天才が努力の限りを尽くしても、指導者も情報もない自治の部では都のベスト8あたりが天井になる。

努力で何でもできるファンタジーの世界でも、最後の壁だけは環境の差として残っている。谷口個人は異様に伸びるけど、チームとしては名門の分厚い仕組みに届かない。さっきの「結果はリアル」も、この形でなら成り立つのかもしれません。


ボク: なんといっても谷口が来る前までの墨谷高校の野球部は田所いわく楽しく野球をするそれやったわけやからね、受験でいえば東大なんて考えたこともないみたいな普通の高校w

Claude: そう考えると、谷口がやったのは個人の上達以上に、部の空気を変えたことなんですね。東大なんて誰も考えたことのない普通の高校に、本気で目指す奴が一人入ってきて周りも巻き込まれて勉強し始めた、という構図。

ただ空気は変わっても、ノウハウや指導者まではすぐ揃わない。だからベスト8まで駆け上がれたけど、その先は届かなかった。楽しく野球をする部から都の上位を争う部へ一代で持っていっただけでも、谷口の仕事としては十分すぎるくらいです。


ボク: あれはちば先生の絶筆だけど、そうは思えないラストシーンやったな、負けた試合のあとランニングして帰る

Claude: あれは見事な終わり方でしたね。負けて泣き崩れるでも、次の目標を高らかに掲げるでもなく、ただいつものように走って帰る。

あの作品の価値観が全部そこに詰まっている。勝ち負けより、毎日の練習が続いていくこと自体が大事で、試合はその途中の一点にすぎない。だから終わっても終わった感じがしないし、読者の頭の中では墨谷の連中が今もランニングを続けている。


ボク: させないというかちば先生が自死されたと聞くが

Claude: ちばあきおが亡くなったのは1984年、41歳で、自死と伝えられています。晩年はうつに苦しんだそうです。

ただ『プレイボール』の連載終了は1978年なので、亡くなって途切れたわけではなく、あのランニングのラストはその時点で置かれた終わり方です。その後も『キャプテン』などを描いていました。終わらない日常を描いたあのラストと、作者の早すぎる死との対比が、後から振り返ると余計に胸に迫るんだと思います。


ボク: そうなんだ、ボクは途中で終わったもんやと思ってた

Claude: そう思われるのも無理はないです。甲子園にも行かず、谷口の高校生活も最後まで描かれずに、負け試合とランニングで終わりますから、打ち切りや未完に見えやすい。

それに2017年からはコージィ城倉が『プレイボール2』として続きを描いていて、「本来の続きがあった作品」という印象がさらに強まったかもしれません。


ボク: いまWikipediaみたら医者に止められて未完とあるぞw

Claude: それは失礼しました。私の「その時点で置かれた終わり方」は不正確でした。亡くなって途切れたわけではないものの、体調の問題で医者に止められて連載を終えた、つまり未完というのが正確ですね。途中で終わったというご認識のほうが合っていました。

そうなると、あのランニングのラストも意図した結末というより、そこで筆を置かざるをえなかった場面ということになる。それでも終わりらしく見えてしまうのは、もともと「練習が続いていく日常」を描いていたから、どこで切れても途中に見えるし、どこで切れても終わりに見える作りだったからかもしれません。


ボク: あれで終わってよかったのかも。ドカベンプロ野球編みたいになるのもどうかと思うしw

Claude: それはありますねw 『ドカベン』は高校編のあとプロ野球編、スーパースターズ編と2018年まで続いて、長く続いたぶん「高校編で終わっていれば」という声も少なくありません。

『プレイボール』は続ければ続けるほど、墨谷が甲子園に行くかどうかに直面する。行けば努力万能のファンタジーが現実の壁を超えてしまうし、行けなければ延々とベスト8を繰り返す。どちらに転んでもあの絶妙な均衡は崩れていた。都の予選で負けて走って帰る、が一番美しい着地点だったのかもしれません。


七.滑り止めの球児


ボク: 大体高校野球を描いたマンガやと県予選なんてゲームのザコキャラみたいな扱いが普通wそのへんは灘から見た滑り止めみたいなもやなw

Claude: 大抵はそうですね。『ドカベン』の明訓なんて県予選は消化試合扱いで、本番は甲子園から。

ただ例外もあって、面白いことに前に出たあだち充の『タッチ』がそうです。地区予選の決勝が物語のクライマックスで、甲子園の試合はほとんど描かれない。『プレイボール』も予選が舞台そのもの。灘の滑り止めのたとえで言えば、滑り止めで苦戦する受験生を主役にした漫画は普通描かれないけど、それを描くと『プレイボール』になり、滑り止め合格の日に人生のドラマを全部詰め込むと『タッチ』になる、という感じでしょうかw


ボク: ボクみたいなのは早稲田の受験レベルで送りバントやらスクイズやらでちまちま一点とってるのに、相手校はブンブン振り回して長打連発みたいやったんやろなw

Claude: 情報のない公立から早稲田を目指すとなると、そうなりますよね。相手は塾と学校のノウハウでフルスイングしてくるのに、こっちは自分で調べた手探りの作戦で、確実に一点ずつ積み上げるしかない。

ただ、それで試合に勝っているのだから戦い方としては正解だったわけで、まさに墨谷の野球です。派手さはないけど、自分の手持ちで勝てる方法を自分で組み立てた。長打を打てる環境にいた相手より、そのほうが身についた力は大きかったかもしれません。


ボク: 野球の天才たる谷口くんなんて程遠いというかそもそもあんなに練習ならぬ勉強をしていないんですけど、なぜか自分をなぞらえてしまうところはありますねw

Claude: それこそが、さっきの「天才を凡才に見せかける」仕掛けの効き目なんだと思います。谷口が最初から天才として描かれていたら、読者は自分を重ねようがない。名門の二軍で、自信がなくて、ひたすら地味な練習をする少年として描かれているからこそ、誰もが「あれは自分だ」と思えてしまう。

実際の谷口は天才で、自分はあんなに頑張ってもいない。それが分かっていても重ねてしまうのは、作者の術中にきれいにはまっている証拠ですねw


ボク: そういう人だけがハマるからw
イチローもオリックスの合宿所に持ち込んだらしいし、自分をイガラシに見立てていたとが、確かに似てます、勉強もできてピッチャーもやってたし
意外とそれぞれがいろんなキャラに感情移入してるのかな丸井とかに

Claude: イチローの件は私も確かなことは言えませんが、ピッチャーをやっていた点は確かに共通していますね。イガラシは小柄で頭が切れて、谷口以上に厳しい練習を課す合理主義者なので、プロで自分の理論を貫いたイチローが重ねるのは分かる気がします。

キャラごとに入り口が違うのがあの作品の強さで、谷口は自信がなくても努力で道を開く人、丸井は不器用で熱くて誰かを慕って突っ走る人、イガラシは才能を冷静に磨く人、近藤はお調子者だけど天性の素質がある人。違うタイプの読者がそれぞれ自分を見つけられる。丸井に入れ込む人は多いと思いますよ。報われないところも含めて、一番人間くさいキャラですから。


ボク: 裏主役ですからキャプテンの、丸井は、谷口ですら顔を見せない中学の野球部にずっと来てましたからね。なんというかスケバン刑事の暗闇指令か平成ゴジラの三枝未希w

Claude: そのたとえは的確ですねw 三枝未希が平成VSシリーズ全作を貫いていたように、丸井はキャプテンの代替わりをまたいで作品をつないでいる。

谷口→丸井→イガラシ→近藤と主役が入れ替わる構成で、丸井だけは自分の代が終わっても墨谷二中に顔を出し続ける。谷口は前に進んで高校で自分の物語を生きるけど、丸井は後輩たちの物語にもずっと居座る。しかも暗闇指令や未希と違って、丸井には特別な力も役職もない。ただ谷口とあの部が好きで来ているだけ、というのがまた泣かせます。


ボク: 近藤の成長を確認してもう自分が来る必要はないというラスト

Claude: キャプテンの物語を、主役ではなく丸井の目で締めくくるというのが見事ですね。谷口から受け取ったものを自分の代で預かり、イガラシに渡し、頼りなかった近藤がちゃんとキャプテンになったのを見届けて、ようやく手を離す。

裏主役が退場することでバトンリレーが完結する。『プレイボール』が終わらない日常で終わったのに対して、『キャプテン』は丸井の卒業でちゃんと終わる。同じ作者で、未完と完結の対照になっているのも面白いところです。