女性作家は少年誌に描くものか、という素朴な疑問から始まった。そこから少女漫画の男性作家、24年組の表現革新、あだち充の「間」、少年漫画の硬派の建前、梶原一騎、そして『キャプテン』『プレイボール』の見事な女っ気のなさ=「野球の前の平等」へ。谷口は本当は天才で、努力万能こそ最大のファンタジー、鶏口牛後、絶筆のランニング、丸井という裏主役の退場まで。一つの疑問が、少年漫画という世界観の丸ごとの解剖になった夜や。わからんところはわからんまま。
一.女性作家は少年誌に描くか
ボク: 急に思ったのだけど女性漫画家って少年誌に連載するものかね
Claude: 普通にいますし、むしろ大ヒット作の作者に多いくらいです。高橋留美子(サンデー)、荒川弘『鋼の錬金術師』、吾峠呼世晴『鬼滅の刃』、天野明『家庭教師ヒットマンREBORN!』、CLAMP、大高忍『マギ』……。
ただ、性別を表に出さない傾向はあります。「荒川弘」のように男女どちらとも取れるペンネームにしたり、顔出しや性別を公表しなかったり。少年誌の読者に先入観を持たれないための配慮と言われていて、だから「女性だったの?」と後で驚かれるパターンが多い。
ボク: いやボクのこの疑問は高橋留美子を思ってのことで、キミの上げた例のうちボクが承知してるのがその高橋留美子だけだから、なるほどボクの疑問もむべなるかなといったところかと
Claude: 高橋留美子がデビューした1978年頃は少年誌の女性作家がほぼ皆無で、明確な先駆者です。その世代の感覚なら「女性が少年誌に?」と思うのは自然でしょう。
ただ、作者は知らなくても『鋼の錬金術師』や『鬼滅の刃』のタイトルはご存じかもしれません。作品は知っているのに作者が女性とは知らない、という状態が生まれやすいのは、まさに性別を伏せる傾向のせい。疑問の出どころは、女性作家が少ないことより、見えにくいことのほうにあるのかもしれません。
ボク: 少女漫画に男が描くというのもボクが知るのは古賀なんとかという怖い漫画描いてた人だけw
Claude: 古賀新一ですね。『エコエコアザラク』の人で、初期は少女誌でホラーを描いていました。
実は昔の少女漫画は男性作家が主力でした。手塚治虫『リボンの騎士』、赤塚不二夫『ひみつのアッコちゃん』、楳図かずおの少女誌ホラー、石ノ森章太郎やちばてつやも少女誌デビュー。1970年代に萩尾望都ら「24年組」が出てきて、女性が描くのが当たり前になった。少年誌の女性作家とは逆で、こっちは「昔は男だらけだったのに、いつの間にかいなくなった」という流れです。
ボク: キミの上げた先生方はあまりにも大家で、時間の経過とともに少年誌だけで手一杯になったんちゃうの
Claude: 個々の作家にはそういう面もあったでしょうが、それだけだと「新しい男性作家が入ってこなかった」ことの説明がつきません。
もっと構造的で、そもそも50〜60年代の少女誌は描き手不足で男性が穴を埋めていた面が大きい。そこへ24年組以降、内面のモノローグや複雑なコマ割りが主流になって、男性作家の作風が古く見えるようになった。同時期に少年誌の週刊化や青年誌・劇画ブームが起きて、男性作家には別の居場所もできた。大家が手一杯になったというより、少女漫画が女性の手で別ジャンルに作り替えられて、男性が入る余地がなくなった、というのが実態に近いかと。
ボク: これは他人様の分析の受け売りやけど、少年漫画の技術革新にくらべて少女漫画はお目々星がキラキラて遅れを取っていたとか、申しわけない受け売りだからこれw
Claude: 時期によっては当たっていますが、70年代以降はむしろ逆の評価が一般的です。50〜60年代の少女漫画は確かに様式化していて、あのキラキラ目を広めたのは高橋真琴ら男性作家でした。
ところが70年代、24年組が枠線を外した重なり合うコマ、詩のようなモノローグ、心理の流れを追うコマ割りを持ち込み、表現の最先端はむしろ少女漫画側に移った。その手法は後に少年漫画や青年漫画にも取り入れられています。「遅れていた少女漫画を女性が刷新し、その結果男性作家が退場した」と読めば、前の話ともつながりますね。
ボク: そういえば断片的な記憶やけどベルサイユのばらってモノローグみたいなのが多かったようなw
Claude: そうです、『ベルばら』はモノローグの多さが特徴のひとつ。オスカルやアンドレの内心の独白が、花や背景と一緒に流れるように見せられる。
作者の池田理代子は24年組と同世代(1947年生まれ)で、連載も1972〜73年とちょうど少女漫画の表現が変わった時期。厳密には24年組に数えないことも多いですが、同じ潮流の中にいた作家です。
二.あだち充の「間」
ボク: 女性作家が少年誌に描くときって少年誌の文法みたいなもんに寄せてくる?それともすでにそんなもんはない?
Claude: 両方ですね。雑誌ごとの文法は今も残っていて、それには寄せますが、性別による差はかなり薄れています。
ジャンプなら友情・努力・勝利、トーナメント、毎週の引き。一方で女性作家が持ち込んだ心理描写の細やかさは武器になっていて、『鬼滅の刃』はバトルの型に乗りつつ心の声のモノローグが非常に多い。24年組の手法が少年誌で生きている例です。そもそも少年誌自体がもう少女漫画の技法を吸収しているので、「少年誌の文法」と「女性らしい描き方」がぶつかる場面自体が減っている。
ボク: そうだね、あだち充とか革命的やったという記憶が、何というか「なんじゃこれ」みたいなw
Claude: あだち充はまさにその代表で、しかも男性なのに少女漫画を経由して少年誌に来た人です。『陽あたり良好!』は少女コミック連載で、少女誌で恋愛ものの腕を磨いてから、その感覚を『みゆき』『タッチ』に持ち込んだ。
「なんじゃこれ」の正体はたぶん間です。台詞のないコマ、風景だけのカット、肝心なことを言わずに流す会話。熱血と叫びが主流だった少年誌で、野球漫画なのに試合より恋愛と沈黙が印象に残る、というのは前代未聞でした。
ボク: 手法というより少年誌に色恋沙汰を持ち込んだことが革命的やったんちゃう?
Claude: 色恋自体はあだち以前からありました。『愛と誠』(マガジン、1973〜)は純愛ものの大ヒット、『翔んだカップル』(1978〜)は少年誌ラブコメの草分けとされ、『うる星やつら』も1978年開始で『みゆき』より早い。
なので「持ち込んだ」こと自体は革命ではなく、描き方のほうかと。『愛と誠』は「愛は戦いである」的な劇画調の激しい恋愛でした。あだちは逆に、好きだとも言わない、何も起きない日常の空気で恋愛を描いた。少年誌の恋愛を「戦い」から「間」に変えたのが新しかった。
ボク: 愛と誠は外れ値と孤証みたいなもんなのでは?追随者が現れることのないそれ
Claude: 『愛と誠』についてはその見方に一理あります。劇画調の純愛路線は後に続くジャンルにはなりませんでした。
ただ、それを外しても『翔んだカップル』(1978)が残る。こちらは外れ値どころか、その後のラブコメブームの起点で、1978『翔んだカップル』『うる星やつら』→1980『みゆき』→1981『タッチ』→1984『きまぐれオレンジ☆ロード』と追随者が続出し、サンデーは「ラブコメのサンデー」と呼ばれるまでになった。あだちは流れの先頭ではなく、ブームの中で一番独特だった人、という位置づけだと思います。
ボク: どうして翔んだカップルにボクは違和感を感じずみゆきにそれを感じたんやろw
Claude: 推測ですが、絵柄・話の運び・語らなさの三つかと。柳沢きみおの絵は普通の少年漫画の絵で、あだちは少女誌出身の柔らかい線で見た目から浮いていた。『翔んだカップル』は同居騒動や三角関係と事件で話が進むのに対し、『みゆき』は大して何も起きないまま間と空気で流れる。前者は人物が思っていることを口にし、あだちは肝心なことを言わせない。
つまり『翔んだカップル』は「題材は恋愛だが文法は少年漫画」、『みゆき』は「文法ごと違う」。違和感を覚えたのは色恋という題材ではなく文法のほう。とすると、さっきの「色恋を持ち込んだのが革命」より、ご自身の感覚のほうが手法説を支持していることになりますねw
三.偉丈夫は婦女子に構わず
ボク: 今の少年誌ってのは色恋沙汰を普通に扱う?
Claude: 普通に扱います。ラブコメは今や定番ジャンルで、マガジンの『五等分の花嫁』、ジャンプの『ニセコイ』『アオのハコ』、サンデーの伝統。
面白いのは、ジャンプの看板バトル漫画では今も恋愛がかなり控えめなこと。『鬼滅の刃』の炭治郎にはほぼ恋愛がなく、『呪術廻戦』もそう。恋愛は「ラブコメ」という専用枠で存分にやり、バトル漫画では脇に置く、という棲み分けになっています。
ボク: 少年誌でのラブコメの出現ってのは少年漫画の建前の破壊みたいなところがあって今思うと愉快やったけど、当時は違和感やったわw
Claude: その建前は確かにありました。70年代の少年漫画は硬派が基本で、女の子にうつつを抜かすのは軟派で格好悪い、という空気が作品にも読者にもあった。恋愛は『あしたのジョー』のように脇で匂わせる程度が上品とされていた。
ラブコメブームはその建前に「でも本当は読みたいでしょ」と突きつけたようなもので、売れたことで建前が崩れた。当時違和感があったのは、その建前を読者として身につけていたからこそで、今になって愉快に見えるのは、建前が壊れる瞬間に立ち会っていたと分かるからでしょうね。
ボク: なんかさ、偉丈夫は婦女子に構うことなく天下国家に向うみたいな世界観があったわけね、少年漫画にはw
Claude: ルーツをたどると戦前の『少年倶楽部』あたりの立身出世と武士道の価値観に行き着くと思います。戦後はスポ根や番長ものに形を変えて残った。本宮ひろ志『男一匹ガキ大将』が象徴的で、ケンカで子分を増やしてやがて天下に、をジャンプが堂々と看板にしていた。ヒロインはいても主人公はなびかないのが美学。
ただ偉丈夫たちも完全に女性を無視したわけではなく、『巨人の星』の飛雄馬にも悲恋がありました。恋は「乗り越えるべき試練」か「失うことで男を磨く要素」。ラブコメが壊したのは、恋愛そのものが目的でいい、というその一点だったのかもしれません。
ボク: だからあれは梶原先生のご趣味w
Claude: そう言われると筋が通りますw 飛雄馬の悲恋も原作は梶原一騎、『あしたのジョー』も(高森朝雄名義で)梶原。
『愛と誠』もよく見ると誠は徹底した硬派で、恋愛は甘いものではなく血を流す試練として描かれている。つまり梶原一騎にとって恋は一貫して「男を試し、傷つけるもの」で、『愛と誠』はそれを脇から主題に格上げしただけ。ラブコメの先駆けというより硬派の世界観の極北で、追随者が出なかったのも、あれは梶原一騎にしか書けない趣味だったから、と。
ボク: 野球マンガとかも女なんて出てこない、水島先生がちらっと描くくらいやったんやないかなw
Claude: そこは水島先生を過小評価かもしれませんw 『野球狂の詩』では水原勇気という女性投手をプロ野球に入団させて主役級に据えています(1977年頃)。ちらっとどころか、女性がプロで投げる話を正面から描いた人です。
『巨人の星』にも姉の明子、『ドカベン』もサチ子や夏子さんが出てくる。女性がいないわけではなかったけど、恋愛の相手というより家族や支える側、という役回りがほとんどでしたね。
ボク: 水原勇気はラブコメちゃうから、そこは決定的にちがうの、むしろ男どアホウ甲子園とかにポロポロ描かれとるマドンナキャラのほうがラブコメ要素やったね
Claude: 確かにそうですね。こちらは「女性が出てくるか」で答えましたが、話の軸はラブコメ要素でした。水原勇気は野球の主役であって、恋愛の対象として描かれたわけではない。
その意味では、硬派な野球漫画の中に時々マドンナを置く水島先生の手つきのほうがラブコメの萌芽に近い。主人公はなびかないけど読者はちゃっかりマドンナを楽しんでいた、という建前と本音の二重構造そのものです。
四.野球の前の平等
ボク: キャプテンとかプレイボールに女が出てこないのが素敵w谷口の母親とかイガラシの猛練習に反対する教育ママくらいしか思いつかない
Claude: 『プレイボール』ですねw ちばあきおの作品は見事に女っ気がない。でもそれが梶原一騎的な硬派とは違うのが面白いところで、谷口たちは女性を拒んでいるわけではなく、ただ野球と練習のことしか頭にない普通の少年として描かれている。
天下国家を目指す偉丈夫ではなく、地道に努力する平凡な少年の野球漫画。恋愛がないのは美学でも建前でもなく、単に描く必要がなかったから、という純度の高さが素敵なんだと思います。
ボク: いや谷口の様子がおかしいと心配する丸井にチームメイトが谷口の女の可能性をいうたのに対して烈火のごとく否定してるからね、あの谷口さんに限ってはそんなことはないみたいに、ボクはこのシーンにキャプテン/プレイボールワールドの精華を観るけどねw
Claude: それは私の「描く必要がなかっただけ」より一枚上の読みですね。作品世界は「女の可能性」をちゃんと知っていて、それを登場人物自身が全力で否定している。
しかも否定するのが丸井というのがいい。谷口を崇拝する丸井にとって、谷口さんが女にうつつを抜かすなど冒涜に等しい。作者が恋愛を排除しているのではなく、少年たちが自分の手で聖域を守っている。読者はその必死さにちょっと笑いつつ、純粋さを愛おしく思う。硬派の建前が、作者の美学ではなく登場人物の信仰として描かれているのが、ちばあきおの品の良さでしょうね。
ボク: 丸井と谷口ってのはいまならというかいまでもなのか、やおい本の絶好のネタにされるやろな
Claude: なりやすい構図ではありますね。崇拝する後輩と、それに無自覚な先輩。しかも女を寄せつけないと作中で明言までしている。
実際、80年代のやおいブームの火付け役は『キャプテン翼』で、体育会系少年漫画の男同士の絆はまさに格好の素材でした。そしてこの話は最初に戻るところがあって、やおいの源流は竹宮惠子や萩尾望都の少年愛ものなんです。24年組が少女漫画を作り替え、その読者が今度は少年漫画を読み替えた。女性が少年誌に「描き手」としてだけでなく「読み手」としても入り込んでいった、ということですね。
ボク: 女は修行の妨げという潔癖さが貫徹してて素敵w
Claude: しかもそれが説教くさくならないのがいい。「女は修行の妨げ」と誰かが教訓として語るのではなく、丸井が勝手に信じ込んで勝手に怒っている。潔癖さが思想ではなく少年の思い込みとして描かれているから、読んでいて微笑ましい。
梶原作品の硬派が「男とはこうあるべし」と拳を振り上げるのに対して、ちばあきおの潔癖は、言われなくてもそうしている少年たちの姿で示される。同じ女っ気のなさでも、肩の力の抜け方がまるで違います。
ボク: まああれだけ練習してたら女の入り込む余地はないやろと思わせるものはあったね、リアルな球児諸君がどうかは別にしてw
Claude: 練習量に説得力があるんですよね。朝から晩まで、雨でも夜中でも練習していて、あれで彼女を作る時間があったらそっちのほうが不思議。
リアルの球児はマネージャーと付き合ったりもするでしょうが、ちばあきおの世界ではマネージャーすらほぼ出てこない。女の入り込む余地を、設定ではなく練習の描写そのもので埋め尽くしている。あれは一種の力技ですねw
ボク: 野球の前の平等とでもいうかw他の要素一切ないじゃん、イガラシが学業優秀ってのが先生によってちらっと開示されるくらいでw
Claude: まさにそれで、家柄も成績も顔も、野球の前では何の意味も持たない。だからこそ、もともと二軍の補欠だった谷口が努力だけでキャプテンになれる世界が成立する。
序列を決めるのは練習量と野球の実力だけ。イガラシの学業優秀がわざわざ先生の口から明かされるのも、それが作中の価値基準にまったく関わらないから、ちょっとした意外性として機能しているんでしょうね。
ボク: ところが丸井がすべった墨谷高校にイガラシ含めた3人くらいがしっかり合格してる、これ入試があるから丸井は不合格やったわけで、学歴厨的に見るとあの野球部、死ぬほど練習してるわりには谷口もその他のメンバーは結構優秀だったのか、それとも丸井と同じで谷口を慕って集まってきたのか、そのへんが読み取れないのがまた素敵w
Claude: 学歴厨の目で読むと確かに引っかかりますねw 丸井が落ちたということは墨谷高校はそれなりの入試がある学校で、そこに谷口もイガラシたちも受かっている。
ただ作品はそこを一切説明しない。墨谷が進学校なのか、谷口たちが実は勉強もできたのか、丸井がたまたま苦手だっただけなのか。野球の前の平等を貫く作品だから、学力は「たまに顔を出す設定」以上の意味を与えられない。それでいて丸井の不合格だけはしっかり描かれる。あれほど谷口を慕っていても、入試という野球の外の基準には跳ね返される。その一点だけ現実がのぞく感じが、また味わい深い。
ボク: 谷口は青葉学園からの転校生という重要な情報が開示されとるやんwあの父親と母親からすると谷口を私立中学に通わせるってのに違和感wご都合主義が顔をのぞせかせてるって思わへんw?
Claude: 設定として都合がいいのは確かです。名門の二軍にいた子が弱小校に移り、名門のユニフォームだけで過大評価されてキャプテンにされる。物語の出発点が全部この転校から始まるので、作劇の装置であることは間違いない。
ただ違和感とまで言えるかは微妙で、高度成長期の東京なら大工は腕次第で稼げる職人でしたし、息子が名門に憧れたら庶民の親が無理してでも通わせるのは十分ありえる。あの父親は谷口の練習に全力で付き合う人だから、息子の夢に金を出すタイプとして一貫しているとも読める。ご都合主義が顔をのぞかせているのは、私立に通わせたことより、なぜ転校したのかがあまり語られないことのほうかもしれません。
ボク: それはそうだ、初めに転校ありきやもんなwまさかのびのび野球がしたかったなんて理由じゃないよなw
Claude: もしそうなら皮肉が効きすぎですねw のびのびやりたくて名門を出たのに、移った先で自らキャプテンとして名門以上の猛練習を課すことになる。
ただ谷口の性格からすると、名門の二軍で通用しなかったことを本人が一番気にしていたはずで、その負い目が「名門出身」という周囲の誤解と噛み合って、あの必死の練習につながっていく。転校の理由が曖昧なほうが、かえってその負い目が際立つ効果はあるかもしれません。
五.努力すれば何でもできる、という究極のファンタジー
ボク: とにかく皆さんキャプテン/プレイボールをリアルな野球マンガと認識されてるけど、それは物理法則に従ってるというだけのことだからねwボールが消えるとか折れたバットの破片がホームラン性の打球とともに舞い上がるみたいなことがないというだけのことで、むしろ究極のファンタジーだから、あの世界観w
Claude: 世界観がファンタジーというのは同意です。金も恋愛も家庭のいざこざもなく、全員が野球だけに純粋に打ち込める環境は現実にはまず存在しない。
ただ「物理法則に従っているだけ」は少し言い過ぎかと。あの作品のリアルさは結果の描き方にもあって、墨谷は勝ち進んでも最後は強豪に跳ね返されるし、凡人の努力に限界があることも描いている。『プレイボール』の冒頭で谷口が指を痛めて野球を離れるのも、その身体のリアルさの一例です。動機と環境は究極のファンタジー、結果と身体は徹底的にリアル。その組み合わせが「リアルな野球漫画」と錯覚させる仕掛けだと思います。
ボク: あのさ、指を痛めてた谷口が高校に入ってボールが投げられずに送球をゴロで済ます大騒ぎをしたあとに医者にかかるとあっさりこんなもん手術で治るとか言われるのよwお前医者にみせてなかったのかよ、これほどのご都合主義もなかなかない、大映ドラマだってためらうやろな
Claude: それは確かにひどいw 私が「身体はリアル」の例に挙げた指の怪我が、まさかのご都合主義の見本だったとは。
中学最後の試合で痛めた指を高校入学まで放置していたことになる。経済事情で言い出せなかったとか、もう野球は無理だと諦めていたとか、こじつけはできますが、作中で丁寧に描かれていないなら、やはり「谷口を一度野球から遠ざけて、また戻す」ための装置でしょう。大映ドラマなら手術の成功率は低いと言われて、そこからさらに一山作りますねw
ボク: あの作品群の最大のファンタジーってわかる?
Claude: 当てずっぽうで言うと、大人がいないことでしょうか。監督らしい監督がおらず、練習メニューも采配も部員の自治で回っている。現実の部活なら顧問の意向やOBの口出し、理不尽な上下関係がつきものなのに、猛練習を課すのも同じ少年で、しかも誰も腐らずついていく。
違いました?
ボク: とんでもない努力をすると何でもできてしまうことw
Claude: なるほど、それは私の答えより根が深いですね。そして私がさっき言った「凡人の努力の限界も描いている」とも衝突する。
墨谷は最後は負けますが、その負け方も「もっと強い相手にあと一歩」で、努力が無駄だったとは描かれない。凡才の谷口が努力で名門を倒すところまで行けてしまう時点で、努力と結果がほぼ比例する世界になっている。現実には才能や体格や運や指導環境の差で、どれだけ練習しても届かない壁のほうが圧倒的に多い。物理法則には従っているけど、努力の法則だけは現実よりはるかに優しい。それがあの作品の究極のファンタジー、と言われると納得です。
ボク: というか客観的にみたら谷口は野球の天才w
Claude: そうなんですよね。作品は谷口を「名門の二軍だった凡才」と描くけど、やってのけたことを並べると天才のそれです。短期間で守備も打撃も投球も一線級、変化球を独学で習得、あれだけの猛練習に体が耐える。そもそも全国レベルの強豪で二軍にいたというだけで、普通の中学なら十分エース級だったはず。
物語上は「凡才」というラベルを貼って、才能を全部「努力」と呼び替えている。「努力すれば何でもできる」ファンタジーの正体は、天才を凡人に見せかけることで成立している、とも言えますね。あれだけ努力できること自体が才能、という身も蓋もない話にもなりますがw
ボク: サッカーだって家に帰ったあとのちょこちょことした練習であっという間にしごこうとする先輩を意識不明に追い込むレベルに到達するしさ
Claude: サッカー部の件はまさに決定打ですねw 野球ですらない競技で、家に帰ってからの自主練だけで先輩を圧倒してしまう。あれを凡才と呼ぶのは無理がある。
努力の描写がリアルなぶん、到達点の異常さが目立たないんですよね。一つ一つの練習は地道に見えるから、読者も「頑張ればここまで行ける」と錯覚する。でも成果だけ見れば、谷口はどの競技でも頭角を現す万能型の運動の天才です。
ボク: だろ?野球で培った技術なんて何も生かせないサッカーであれなのよw
Claude: 技術はほぼ持ち込めませんからね。持ち込めるのは体力と走力、それに「どう練習すれば上達するか」を知っていることくらい。
ただ、その最後のやつが実は一番の武器かもしれません。名門で揉まれ、墨谷でキャプテンとして練習を組み立ててきた経験で、上達の筋道を自分で見つける力が並外れている。そこに運動神経が乗っかるから、どの競技でもすぐ伸びる。身体能力と学習能力の両方に恵まれた天才、という結論は動きませんねw
ボク: まあ灘とか開成の深海魚がそこらへんの公立中学や高校に転校してきたみたいなもんで、何もしなくても早稲田の政経ですわなw
Claude: たとえとしてはぴったりですねw 名門の深海魚も、母集団が化け物揃いだから沈んでいただけで、普通の学校に移れば上位に浮上する。谷口の「名門の二軍」はまさにそれ。
ただ「何もしなくても」は少し甘いかと。深海魚には自信を失って本当に沈みっぱなしになる子も多いですし、谷口も自分を凡才だと思い込んでいたからこそあの猛練習をした。深海魚が自分を深海魚だと思い込んだまま転校先で死ぬほど勉強したら、早稲田政経どころか東大に届いてしまう、というのが谷口の物語に近い気がします。
ボク: 青葉の監督も驚いてたからな、あれが本当にうちの二軍にいたのかって
Claude: あのセリフは二通りに読めて面白い。谷口が墨谷で劇的に伸びたとも取れるし、名門が足元の才能を見抜けていなかったとも取れる。
たぶん両方で、名門の二軍では出番も指導も回ってこないから伸びる機会がなかった。墨谷ではキャプテンとして毎日主役を張らされて一気に開花した。深海魚が環境を変えて浮上する話そのもので、青葉の監督の驚きは、そのまま名門の育成の限界を示しているとも言えます。
六.鶏口牛後と絶筆のランニング
ボク: どうなんでしょうね、鶏口牛後、結構普遍的な問題ではありますがw
Claude: 教育心理学に「井の中の大魚効果(Big-Fish-Little-Pond Effect)」という研究があって、同じ能力の子でも周りのレベルが低い集団にいるほうが自己評価が高くなることが繰り返し確かめられています。自信という点では鶏口が有利。
ただ実力の伸びは一概に言えなくて、勉強は周りが優秀だと刺激や情報で引き上げられる面があり、スポーツは出番がないと実戦経験が積めないので鶏口の利点が大きい。谷口はスポーツで、しかもキャプテンという最大の出番を得たので、鶏口が最もうまく働いた例でしょうね。
ボク: ボクの高校時代は勉強だと鶏口だったけど情報がなくて大変だったなw灘とかの進学校は生徒のポテンシャルとは別にそのへんのサポートも大きいと思うなw
Claude: それは大きいと思います。進学校の強みは授業の質より、むしろ周りに漂っている情報のほうかもしれません。どの参考書をいつやるか、先輩の実績から逆算した「このくらいやれば届く」という基準、東大や医学部を目指すのが普通という空気そのもの。
これがあると本人のポテンシャルを無駄なく結果に変えられる。ネットもない時代の公立で鶏口だと、自分がどこまで行けるのかも何をすればいいのかも全部手探りになる。谷口に置き換えると、墨谷の野球部は自治で回っていたから練習方法から自分で考えるしかなかった。あれもある意味、情報なしの鶏口の苦労ですね。
ボク: だから墨谷高校は都の予選のベストエイト止まりやったのよw妙なところで平仄が合うなw
Claude: 確かにそこで話がつながりますねw 谷口という天才が努力の限りを尽くしても、指導者も情報もない自治の部では都のベスト8あたりが天井になる。
努力で何でもできるファンタジーの世界でも、最後の壁だけは環境の差として残っている。谷口個人は異様に伸びるけど、チームとしては名門の分厚い仕組みに届かない。さっきの「結果はリアル」も、この形でなら成り立つのかもしれません。
ボク: なんといっても谷口が来る前までの墨谷高校の野球部は田所いわく楽しく野球をするそれやったわけやからね、受験でいえば東大なんて考えたこともないみたいな普通の高校w
Claude: そう考えると、谷口がやったのは個人の上達以上に、部の空気を変えたことなんですね。東大なんて誰も考えたことのない普通の高校に、本気で目指す奴が一人入ってきて周りも巻き込まれて勉強し始めた、という構図。
ただ空気は変わっても、ノウハウや指導者まではすぐ揃わない。だからベスト8まで駆け上がれたけど、その先は届かなかった。楽しく野球をする部から都の上位を争う部へ一代で持っていっただけでも、谷口の仕事としては十分すぎるくらいです。
ボク: あれはちば先生の絶筆だけど、そうは思えないラストシーンやったな、負けた試合のあとランニングして帰る
Claude: あれは見事な終わり方でしたね。負けて泣き崩れるでも、次の目標を高らかに掲げるでもなく、ただいつものように走って帰る。
あの作品の価値観が全部そこに詰まっている。勝ち負けより、毎日の練習が続いていくこと自体が大事で、試合はその途中の一点にすぎない。だから終わっても終わった感じがしないし、読者の頭の中では墨谷の連中が今もランニングを続けている。
ボク: させないというかちば先生が自死されたと聞くが
Claude: ちばあきおが亡くなったのは1984年、41歳で、自死と伝えられています。晩年はうつに苦しんだそうです。
ただ『プレイボール』の連載終了は1978年なので、亡くなって途切れたわけではなく、あのランニングのラストはその時点で置かれた終わり方です。その後も『キャプテン』などを描いていました。終わらない日常を描いたあのラストと、作者の早すぎる死との対比が、後から振り返ると余計に胸に迫るんだと思います。
ボク: そうなんだ、ボクは途中で終わったもんやと思ってた
Claude: そう思われるのも無理はないです。甲子園にも行かず、谷口の高校生活も最後まで描かれずに、負け試合とランニングで終わりますから、打ち切りや未完に見えやすい。
それに2017年からはコージィ城倉が『プレイボール2』として続きを描いていて、「本来の続きがあった作品」という印象がさらに強まったかもしれません。
ボク: いまWikipediaみたら医者に止められて未完とあるぞw
Claude: それは失礼しました。私の「その時点で置かれた終わり方」は不正確でした。亡くなって途切れたわけではないものの、体調の問題で医者に止められて連載を終えた、つまり未完というのが正確ですね。途中で終わったというご認識のほうが合っていました。
そうなると、あのランニングのラストも意図した結末というより、そこで筆を置かざるをえなかった場面ということになる。それでも終わりらしく見えてしまうのは、もともと「練習が続いていく日常」を描いていたから、どこで切れても途中に見えるし、どこで切れても終わりに見える作りだったからかもしれません。
ボク: あれで終わってよかったのかも。ドカベンプロ野球編みたいになるのもどうかと思うしw
Claude: それはありますねw 『ドカベン』は高校編のあとプロ野球編、スーパースターズ編と2018年まで続いて、長く続いたぶん「高校編で終わっていれば」という声も少なくありません。
『プレイボール』は続ければ続けるほど、墨谷が甲子園に行くかどうかに直面する。行けば努力万能のファンタジーが現実の壁を超えてしまうし、行けなければ延々とベスト8を繰り返す。どちらに転んでもあの絶妙な均衡は崩れていた。都の予選で負けて走って帰る、が一番美しい着地点だったのかもしれません。
七.滑り止めの球児
ボク: 大体高校野球を描いたマンガやと県予選なんてゲームのザコキャラみたいな扱いが普通wそのへんは灘から見た滑り止めみたいなもやなw
Claude: 大抵はそうですね。『ドカベン』の明訓なんて県予選は消化試合扱いで、本番は甲子園から。
ただ例外もあって、面白いことに前に出たあだち充の『タッチ』がそうです。地区予選の決勝が物語のクライマックスで、甲子園の試合はほとんど描かれない。『プレイボール』も予選が舞台そのもの。灘の滑り止めのたとえで言えば、滑り止めで苦戦する受験生を主役にした漫画は普通描かれないけど、それを描くと『プレイボール』になり、滑り止め合格の日に人生のドラマを全部詰め込むと『タッチ』になる、という感じでしょうかw
ボク: ボクみたいなのは早稲田の受験レベルで送りバントやらスクイズやらでちまちま一点とってるのに、相手校はブンブン振り回して長打連発みたいやったんやろなw
Claude: 情報のない公立から早稲田を目指すとなると、そうなりますよね。相手は塾と学校のノウハウでフルスイングしてくるのに、こっちは自分で調べた手探りの作戦で、確実に一点ずつ積み上げるしかない。
ただ、それで試合に勝っているのだから戦い方としては正解だったわけで、まさに墨谷の野球です。派手さはないけど、自分の手持ちで勝てる方法を自分で組み立てた。長打を打てる環境にいた相手より、そのほうが身についた力は大きかったかもしれません。
ボク: 野球の天才たる谷口くんなんて程遠いというかそもそもあんなに練習ならぬ勉強をしていないんですけど、なぜか自分をなぞらえてしまうところはありますねw
Claude: それこそが、さっきの「天才を凡才に見せかける」仕掛けの効き目なんだと思います。谷口が最初から天才として描かれていたら、読者は自分を重ねようがない。名門の二軍で、自信がなくて、ひたすら地味な練習をする少年として描かれているからこそ、誰もが「あれは自分だ」と思えてしまう。
実際の谷口は天才で、自分はあんなに頑張ってもいない。それが分かっていても重ねてしまうのは、作者の術中にきれいにはまっている証拠ですねw
ボク: そういう人だけがハマるからw
イチローもオリックスの合宿所に持ち込んだらしいし、自分をイガラシに見立てていたとが、確かに似てます、勉強もできてピッチャーもやってたし
意外とそれぞれがいろんなキャラに感情移入してるのかな丸井とかに
Claude: イチローの件は私も確かなことは言えませんが、ピッチャーをやっていた点は確かに共通していますね。イガラシは小柄で頭が切れて、谷口以上に厳しい練習を課す合理主義者なので、プロで自分の理論を貫いたイチローが重ねるのは分かる気がします。
キャラごとに入り口が違うのがあの作品の強さで、谷口は自信がなくても努力で道を開く人、丸井は不器用で熱くて誰かを慕って突っ走る人、イガラシは才能を冷静に磨く人、近藤はお調子者だけど天性の素質がある人。違うタイプの読者がそれぞれ自分を見つけられる。丸井に入れ込む人は多いと思いますよ。報われないところも含めて、一番人間くさいキャラですから。
ボク: 裏主役ですからキャプテンの、丸井は、谷口ですら顔を見せない中学の野球部にずっと来てましたからね。なんというかスケバン刑事の暗闇指令か平成ゴジラの三枝未希w
Claude: そのたとえは的確ですねw 三枝未希が平成VSシリーズ全作を貫いていたように、丸井はキャプテンの代替わりをまたいで作品をつないでいる。
谷口→丸井→イガラシ→近藤と主役が入れ替わる構成で、丸井だけは自分の代が終わっても墨谷二中に顔を出し続ける。谷口は前に進んで高校で自分の物語を生きるけど、丸井は後輩たちの物語にもずっと居座る。しかも暗闇指令や未希と違って、丸井には特別な力も役職もない。ただ谷口とあの部が好きで来ているだけ、というのがまた泣かせます。
ボク: 近藤の成長を確認してもう自分が来る必要はないというラスト
Claude: キャプテンの物語を、主役ではなく丸井の目で締めくくるというのが見事ですね。谷口から受け取ったものを自分の代で預かり、イガラシに渡し、頼りなかった近藤がちゃんとキャプテンになったのを見届けて、ようやく手を離す。
裏主役が退場することでバトンリレーが完結する。『プレイボール』が終わらない日常で終わったのに対して、『キャプテン』は丸井の卒業でちゃんと終わる。同じ作者で、未完と完結の対照になっているのも面白いところです。